今月の説教要旨
2004年10月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2004年10月3日(聖霊降臨後第十八主日)

『信仰は量の問題か質の問題か』

(テキスト=『ルカによる福音書』第17章5〜10節)

 今日の福音書から学びましょう。

 冒頭に主イエス様の弟子たちが、「わたしどもの信仰を増してください」(5節)とイエス様にお願いしたと記されています。「赦し」の教えの直後、弟子たちは自らの信仰の足りなさを悔い、このようなお願いをしたのです。

 これに対して、イエス様は彼らに「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(6節)と教えておられます。

 弟子たちと同様、わたくしたちにとっても、いつも「信仰の足りなさ」は悲しい現実の問題であります。なんの伝道の奉仕もできず、人を思いやる心もなかなか発揮できず、主日礼拝すら、思うように守れなかったりして心を痛めます。

 また、日常生活でも、いくら教会で教えられても、つい、この世のことばかり考え、目に見えるものばかり追い求め、目に見えないもの=神様のことを忘れてしまいます。殊に、わたくしたちは日々の生活でさまざまな障害に直面したときは 、自己の無力さに胸を痛め、力と信仰の足りなさを思い知らされることが多いものです。

 祈りということについても同様です。「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(『テサロニケの信徒への手紙一』第5章17節〜18節)とか、「どのような時にも“霊”に助けられて祈り、願い求め、……根気よく祈り続けなさい。」(『エフェソの信徒への手紙』第6章18節)などという聖句に触れても、いかに実行できていないかと反省させられるばかりです。

 やっぱり、弟子たちと同じように、「わたしどもの信仰を増してください」と祈るほかありません。

 しかし、この「信仰の足りなさ」を自覚するわたくしたちの発想の中に、「信仰(祈り)は量である」という発想がどこかにあるように思えないでしょうか。「信仰の足りなさ」を思うことは一見、謙遜な姿勢であるようにも思えますが、「信仰が足りない」という発想は、信仰(祈り)を「量的なもの」として捕らえているのではないかとも考えてしまいます。もちろん、それは間違ったことではなく、いつも「信仰の足りなさ」を神様に懺悔しなければならないことには違いありません。

 イエス様はこの弟子たちに、「からし種一粒ほどの信仰心があれば…」と教えておられますが、それは明らかに、信仰の「質」の問題を指摘しておられるようです。

 ファリサイ派の人と徴税人のたとえ(『ルカによる福音書』第18章9節〜14節)の中で、ファリサイ派の人は神殿で自分の功績をいろいろとあげつらった祈りをしましたが、徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(同13節)とだけ祈ったことが記されています。義とされて家に帰ったのは徴税人の方だったとイエス様は言っておられます。

 また、金持ちとやもめの献金の話(『マルコによる福音書』第12章41節〜44節)でも、金持ちたちは有り余る金の中から多くの金をさい銭箱に入れていたが、その日の食費にも事欠く貧しいやもめが、持っている僅かな金を全部、さい銭箱に入れたことが書かれています。

 このような話も、「からし種一粒ほどの信仰」に相通じるものがあります。ですから、やはり、信仰の「質」の問題として受け取って良いのではないかと思います。信仰は「量」の問題と言うより、「質」の問題であることが強調されているのかと思います。

 どんな小さな信仰でも、どんなにささやかな信仰でも本当に心の芯からの信仰であれば、力を発揮すると言うことであり、神はそれをお喜びになるということではないでしょうか。

 しばしばお話ししていますように、聖公会の伝統は自由と多様性ということを特徴としています。それが却って「いつでも逃げ込める自由さ」に繋がります。なまぬるさへの誘惑が潜んでいます。

 量的にも質的にも、充実した信仰を養い、イエス様から、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(『ルカによる福音書』第7章50節)と言っていただくことができるようになりたいものです。