| 今月の説教要旨 2004年11月 |
| 2004年11月7日(聖霊降臨後第二十三主日) |
『新潟中越地震で思うこと』
(テキスト=特祷 特定27)この度の新潟中越地震は誰の心にも、自然災害の恐ろしさ、過酷さを改めて思い知らされたものであったと思います。
阪神淡路大震災のときも、信じられない気持ちでテレビの報道に食い入るような目で捕らえられていましたが、それでも心の一部では「他山の石」「対岸の火事」のように思っていた自分を恥ずかしく思ったものです。
今度の新潟中越地震では死者の数は阪神淡路大震災にくらべて遙かに少なかったとはいえ、自然災害の恐怖はわたくしたちの心に強く強く残りました。強く長く何回も繰り返す余震におびえる人々の姿、孤立してヘリで救出される人々の姿、避難所の中で寒さと家への心配の中で耐える人々の姿等々、十分すぎるほどわたくしたちの心を痛めました。
そんな中で、崖崩れに埋まったクルマから特別レスキュー隊員らの必死の救出活動によって、あの優太ちゃんという子が救出されたときの場面は他人事とは思えぬ喜びと希望の大きな感動を与えてくれました。
わたくしはこの約二週間、いろいろなことを考えながら過ごしました。一人の人間としても、このような自然災害をどう受け止めたらよいのか。ことにキリスト者としてどう受け止めたらよいのかという問題も大切です。
今日の特祷に、「全能の神よ、何ものもあなたの支配に逆らうことはせきません。」とあります。旧約聖書のヨブの苦難の物語で、次々と襲う苦難に対して、一言も神に対して文句を言わなかったあのヨブが、ついに音(ね)を上げ、神に文句を言うシーンで、神が、つむじ風の中に現れ、「神の計りごとを暗くする者は誰か。」(口語訳ヨブ記38章2節)と、お叱りになったことを思い出します。「計りごと」は特祷の「支配」に相当する言葉です。
自然災害のことを「天災」といいますが、自然災害は苦難と同様に、神の「支配」「神の計画」と受け取らねばならないのでしょうか。神は天地宇宙万物を造られ、これらは「良いもの」とされました。なぜ、天地創造の神は、このような過酷な自然災害が起こり、人々に苦しみを与えるような宇宙システムにされておかれたのでしょうか。
この疑問は、なぜ、神は善悪共存の世界に造られたのか、という問題にも通じます。神が創造のときから善だけの世界にしてくださっていたら、戦争やさまざまな社会悪に悩む必要はなかったのです。イエス様と弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っておられたとき、突風が起こり、舟が沈みそうになり、イエス様が「黙れ、静まれ。」(マルコによる福音書第4章39節)といって、荒海を静め、弟子たちを救われたではありませんか。
また、なぜ、神は人間の生体を、かくも複雑に造られたのか、という問いも湧いてきます。内蔵移植の問題が長い間、倫理問題として世界中で論じられてきました。他人の精子を使ってまで妊娠させる技術、DNAを使ってクローン人間などを造ることなど、あるいは、同性愛の問題も、すっかり解決したわけではありません。人間の構造はもっと単純であった方が良かったのかもしれません。
あるいはまた、人間の赤ちゃんの出産を考えてみてください。人間の赤ちゃんの出産にはどれほどの多くの手間と世話を要することでしょうか。犬や猫などの動物は自分の力で簡単に産んでしまいます。そして動物の赤ちゃんは目も見えないのに、母親の乳房を簡単に探しあてて乳を吸います。ミルクを適温に温め、ほ乳瓶で吸わす必要がないのです。人間の赤ちゃんは長い間世話をかけないと育ちません。
これらの問いにわたくしたちはどう答えればよいのでしょうか。わたくしは聖書の教えは正しいと思います。確かに、神の「計画」「支配」は、人知を越えたものであって、その奥義は推し量れません。立ち入ってはならない世界があると思います。
それでもわたくしたちはわたくしたちなりに、聖書の教えに基づきながら、少しでも答えを出してゆかねばなりません。
今回の地震による災害から、多くの人々が多くの事柄を学んだでしょう。それは、自然の恐ろしさについて、災害対策のあり方について、命の尊さについて等、いろいろあるでしょう。中でもわたくしは、神様は、人間の弱さ、無力さを知り、神と自然の前に「謙虚」であるべきことを教えておられると思います。
そして、苦難の中で、愛と人間の絆を強固なものとさせるため、人と人との助け合いを求めておられるのだと教えられました。結局は、神と隣人を愛せよ、との教えに帰って来るべきなのではないでしょうか