| 今月の説教要旨 2004年12月 |
| 2004年12月5日(降臨節第二主日) |
『主の道を整えよ』
(テキスト=「マタイによる福音書 3章1節〜12節)降臨節第二主日は古くから「聖書の主日」として守られています。新しい日課、特祷ではその特性がいささか失われてしまいましたが、「神の言の受肉」というイエス様の御降誕を迎える時に、神の言であるイエス様を証しする聖書の恵みをこの時期に覚えるのは当を得ていることだと思います。
この主旨を頭に置きながら、福音書から施洗者ヨハネについて学びます。
ヨハネは成人して、イエス様の活動前に既に大きな教団を形成していたようです。荒野で群衆を集め、キリスト様を迎えるための「悔い改め」を人々に迫り、多くの人々に洗礼を施していました。
その働きはイザヤ書の預言を引用して、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイによる福音書 第3章3節)と人々に呼びかける働きでもありました。従って、キリスト(救い主)を指し示し、イエス様の働きの先駆的な役割を果たすものであったと言えます。ヨハネの主張は「主の道を整えよ」ということにありました。
「道」というものは、人間の文明・文化発達の上から、即ち、人間生活において重要な意味をもっているようです。文化の発達の一つの鍵は道路の発達の歴史と並行している点にあると思います。
かつて、ローマ帝国が発展して行った時、やはり道路の整備が鍵となりました。「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)を合言葉に、すべての道をローマの中心に向かうように放射状に整備しました。外からすべてのものがローマ中心に集まり、ローマは発展して行きました。
人生の「道」も考えねばなりません。人生にも色々な「道」があり、デコボコ道もあれば、細い道、太い道、まっすぐな道、曲がった道様々です。どの人の人生の道も決して一律平坦な道ではありません。喜びの時もあれば苦しみや悲しみの時もあります。悩みの多い人生の道を各人が歩んでいるのです。
イエス様の歩まれた人生の道はどうだったでしょうか。殊に、神の子イエスの道は、辛い、苦しい道でありました。苦しみの道ばかりであったという訳ではありませんが、病人や貧しい人、罪人、被差別者の真っただ中に入って生ききられました。
しばしばそれらの人々に助けを迫られ、共に苦しみ、悲しみながら、飢えと疲れにあえぎ、「人の子には枕する所もない」(マタイによる福音書 第8章20節)と嘆かれたこともあります。ユダヤ人達の迫害と無理解によって十字架に追い込まれ、「父よ、御心なら、この(苦しみの)杯をわたしから取りのけてください。」(ルカによる福音書 第22章42節)とさえ、十字架の前に父なる神に祈られたほどです。 このイエス様の歩まれた道は十字架のゴルゴタの丘への道そのものでした。後に、この道のことは「ヴィア・ドロロッサ」(悲しみの道)と呼ばれるようになりました。
わたくし達もイエス様と同じ道を自らの力で歩むのはとても難しいです。イエス様の道を歩もうとすることよりも、イエス様がわたくし達の歩む道を一緒に歩んでくださることを信じなければなりません。
わたくし達の歩む道を、あの聖いお方、キリスト様が歩いてくださるというのなら、ひどい道のまま歩いて頂く訳にはいかない、という考え方も成り立ちます。少しでもわたくし達の道を自ら整備して、少しでも歩きやすい道にして歩いて頂こうとする努力も必要です。ちょうど、群衆が、イエス様が最後のエルサレム入りされたとき、上着や棕櫚の葉を敷いてお通り頂いたようにです。
施洗者ヨハネの働きは、そのような意味を持っているのです。「主の道を整えよ」とわたくし達に語りかけているのはそういう意味のことでしょう。「悔い改め」によって、心をきれいにすることによって、自らの道、世界という道を、イエス様のお通りになる道として整備する。−−−それが、クリスマスへの準備でもあります。