| 今月の説教要旨 2005年2月 |
| 2005年2月6日(大斎節前主日) |
『思いが伝わること―輝くこと』
フィリピの信徒への手紙に「私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とありました。この手紙を書いたパウロは、コリントの町などで行われていた陸上競技を見たことがあって、神さまが与えてくださる賞を得るために一所懸命に目標を目指して走ることが大切だとも言っています。ですから、キリストの復活の特別のエネルギーをもらって、復活を目指してがんばることが言われているようですが、直訳しますと、「彼の苦しみとの交わりを知る。彼の死に従う」となり、キリストの苦しみと自分の苦しみとが響き合うことが言われているのではないかと思われます。その響き合いがあるとき、新しい命へと進んでいけるということなのでしょう。
大斎節前主日には山上の変容のところが毎年読まれます。高い山の上でイエス様の姿が変わった。モーセとエリヤがイエス様と語り合っていた。福音書の中でもとても不思議な場面です。この世ならぬものが垣間見える瞬間だと言われます。ただ、イエス様の顔が光っていて服が真っ白だったというだけなら、私たちにとって何の意味もない出来事のように思えます。
普段の生活の中でも人の顔が輝いて見えることがあります。うれしいことがあったとき、顔がまぶしいばかりに輝いて、精力がみなぎっているように見えて、思わずこちらもうれしくなったり、逆にうとましくなって、そうっとその場から出て行くなどということもあります。そんなときは自分の中にしんどい気持ちがたくさんあるときなのでしょう。
イエス様の顔が輝いていたというのは、私たちの周囲で見かけるようなものとは違っていたと思います。山上の変容の話はどの福音書でも、受難予告の第1回目と第2回目の間に置かれています。この一見奇妙な話とイエス様の受難とが深く結びつけられています。モーセは、シナイ山で神様の言葉を受けた後も荒れ野の40年間苦難の連続で、自分は約束の地に入れませんでした。エリヤも何度も死ぬ思いをしながら、当時の王様や人々に神様の言葉を伝えました。どちらもとても孤独に自分の置かれた状況の中で苦闘した人たちでした。その二人とイエス様が話をしていた。弟子たちにはすばらしい光景だと映りましたが、イエス様はそんな中でただ一人で苦悩しておられます。誰も自分のことを理解してくれないところで一人苦しむ。その強烈な経験をした二人とこれからしようとしているイエス様が山の上で出会い、心が響き合っておりました。
山上の変容とは、昔の偉大な人物が現れて名誉なことだったとか、すばらしい奇跡がおこったのだとかいうより、さまざまな苦悩を味わい、その重みに押しつぶされそうになっている者同士が出会い、思いを伝えている。それこそがこの世で簡単に起こることではないという意味で、この世ならぬものが垣間見える瞬間だったのではないでしょうか。思いが伝えられ、心が響き合うときに顔が輝き、また地上の現実の中に立っていく。一人の例外もなく、私たちはつらい思いをいつも抱えていますが、それが少しだけでも人に伝わるとき、神様の不思議な大切な出来事が少しだけでもそこで起こっていきます。その上に、イエス様こそが私たちの思いを知っていてくださっていることを思い起こすとき、私たち自身の顔が輝いていきます。その時を私たち自身の山上の変容の時と呼べるかもしれません。出会いのときが過ぎると再び現実の中に立たされますが、もうそこでは私たちは一人ではありません。イエス様と心が響きあった者として、人の思いをも受け止めることへと導かれたいと思います。