| 今月の説教要旨 2005年8月 |
| 2005年8月7日(聖霊降臨後第十二主日) |
『やさしい神様、こわい神様』
テキスト=マタイによる福音書 第14章22〜23節
本日の福音書は、イエス様の弟子たちがガリラヤ湖上で逆風のため波に悩まされていたときの記事です。弟子たちがそんなとき、湖上を歩かれるイエス様の姿を見て、「幽霊だ」と思って大変な恐怖を感じました。結果的には、イエス様が舟に乗り込まれると、風は静まって弟子たちは救われます。
多分、マタイは当時の迫害などの「逆風」の中で、このイエス様の奇蹟の話を想起しつつ、教会の人々を励ますという意図の中でこの物語を記したものでしょう。
弟子たちは、いつも私たちと一緒に居てくださる「やさしいイエス様」を経験したのですが、「幽霊だ」と思うほど、「こわいイエス様」も見ました。
そこで、本筋から逸(そ)れてしまいますが、七月号の日本聖公会京都教区報『つのぶえ』に掲載の高地主教様の「はずかしがりやのらくだ」という一文から、「やさしい神様、こわい神様」についてお話しさせていただきます。
主教様は「私自身、神さまは監視する方だと20代後半まで思い込んでいました。幼稚園でも日曜学校でも、神さまが監視しているとはだれも私に教えなかったはずなのですが、監視していないと教えられた記憶もありませんし、気が付いたら神さまは怖い存在になっていました。ですから、ぜひ今の子どもたちには神さまのあたたかな目について伝えたいのです。」と書いておられます。
敢えて反論するつもりもありませんし、わたくしもほぼ同感です。けれども、わたくしの経験も思いもちょっと違うのです。
わたくしは幼少の時から、おじいちゃんやおばあちゃんから「隠れたところで見ておられる神様」を絶えず言い聞かせられてきましたし、日曜学校でも「隠れたことを見ておられる父(神様)」(マタイによる福音書6章4節)をよく教えられてきました。
ですから、「こわい神様」をずっと意識させられていて、何かちょっと悪いことをしようとしたとき、「神様が見てはる」という意識が働き、思いとどまったり、躊躇(ちゅうちょ)したりすることがよくありました。それでも悪いことをいっぱいしましたが、大悪も犯さず、無事に今まで育てられてきたのです。
わたくしはこのような過程や環境の中で、わたくしの自制心や良心のようなものが育てられていたように思うのです。だから、小さいときから、「見てはる神様」「こわい神様」をよく教えることも大切だと思うのです。もちろんそれは「脅し」になってはいけませんが…。
現代の青少年少女の非行がよく問題にされていますが、学校や社会や家庭での「しつけ」(教育)ができていないとも指摘されます。そうかもしれません。正しいこと、悪いことの「判断力」が欠けているとも言われます。
その「判断力」の基本は、「自制心」や「良心」から来るものだと思いますから、教会や信者家庭、ミッションスクールで、やっぱり「こわい神様」を積極的に教えても良いのではないでしょうか。
ただ、「やさしい心」「思いやりの心」を養うためには、「こわい神様」を教えるだけで良いのではありません。主教様の「神さまのあたたかな目について伝えたいのです。」という言葉は当然です。「神は愛です。」(ヨハネの手紙一4章16節)から、「やさしい神様」を伝えねばなりません。
「やさしい神様」だけ伝えていると聖書メッセージは「ありがたや節」になってしまいます。「こわい神様」もあってこその聖書です。どちらか一方を説いている訳にはいきません。旧約聖書も新約聖書も、「こわい神様」「やさしい神様」のお話だらけです。
このことをすこしむつかしく言うと、聖書のメッセージは「警告」と「福音」のメッセージであり、「審き」と「救い」のメッセージであるということです。この二つのことは表裏一体です。つまり、「こわい神様」と「やさしい神様」、「審き」と「救い」は切り離すことのできないものだということです。
わたくしは「こわい神様」の意識を今でも抱いています。今後も「こわい神様」を恐れずに伝えて行きたいと思います。