| 今月の説教要旨 2005年9月 |
| 2005年9月4日(聖霊降臨後第十六主日) |
『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。』
テキスト=ローマの信徒への手紙 第12章15節
今朝の礼拝で読まれた使徒書の中から標題の聖句について考えてみたいと思います。
聖パウロはこの言葉の実践をわたくしたちに求めていますが、実際には、これほど実践の難しいことはないのではないかと言ってよいのかも知れません。
というのは、現代社会では「人間の孤立化」が著しい状況になっているからです。まさに、「隣は何をする人ぞ」であります。昔は、何でも話し合いができたり、分かり合ったりするような、人情味ある「隣組社会」があったのに、今は色あせてしまったと、よく嘆かれます。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人とともに泣く」という一見単純なことが今ではなかなかできないから、戦争や色々な事件が増え、「平和」な社会や世界も容易に実現できないのだと思います。もっとも、色々なボランティア活動によって、また、さまざまな人々によって平和な街作り、平和な社会作り、平和な世界作りに努力が注がれていることも事実で、それはそれで大いに敬意を表すべきことです。しかし、人間一人一人の壁はなかなか固くて開くのが本当に「むつかしい」というのが本当のところではないでしょうか。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ということが一番でき易いのは、「愛し合う」ということと同じく、「家族」「家庭」だと言ってよいでしょう。ところが、それも、現代では「家庭崩壊」「家族崩壊」とさえ言われてしまっているのですから、もう「情けない」としか言いようがありません。
使徒言行録には、初代キリスト教会時代は、教会を中心として、貧しい人も富める人も、持っているものを持ち寄り、みんなで分け合っていたことが書かれています。この「分配」の仕事が忙しくなりすぎて、本来の「み言(ことば)を語る」仕事がおろそかになるという危険性が生じたために、「分配」の仕事を担当する者として、「執事職」が生まれたことが記されています。
そもそも、聖書では、教会は「コイノニア(交わり)」の場であると教えられていますが、「コイノニア」の原意は「分け与える」ということだそうです。ですから、言い換えると、「教会」は、同じ信仰を持つ者が神と人との交わり(交流)の場であるということだけでなく、「分け与える」ことこそ、その原点とすべき所だということです。
教会には、礼拝を執行し会衆のお世話をする司祭が居て、聖餐の「分餐」をする執事が居たり、また礼拝と聖職のお手伝いをするサーバーが居り、オールターギルドの方がおられて聖具の用意をしたり、後始末をしてくれたりしてくださいます。オーガニストは礼拝中美しい奏楽をしてくださっています。日課朗読者も居ます。礼拝後は教会委員の方々が会計委員さんを助けて諸献金の整理をしてくださっています。当番制で毎週聖堂のお掃除をしていただいています。
教会では、こんなにみんなが各々の賜物(タラントン)を持ち寄って、「分け与える」奉仕がたくさんなされているのです。礼拝では、世界中の人々と共に祈りを分かち合い、聖書研究会等の諸集会でも、さまざまな教えを聞いたり、体験談を語り合ったりして分かち合いをしています。
ある信徒の方が、礼拝堂の「助け合い献金箱」にコツコツと500円玉を入れてくださっているお陰で、牧師の責任において適当な形で貧しい信徒や外来の気の毒な人々への「分け与え」もできていて、ほんとうにうれしい限りです。
ただ、一つ二つ惜しむべきことがあります。司祭の説教も、み言の「分け与え」の働きですが、その「み言」への応答への機会がないために、み言についての会衆との分かち合いがほとんどありません。説教に限らず、み言についての分かち合いが、もっとできればと願っています。ちょっと前に紹介した泉北家庭集会では、みなさんが自分の信仰に応じて活発な意見の交換がなされていて、すばらしいと思いました。
もう一つは、喜びの分け与えだけでなく、悲しみや苦しみについても、もっとお互いに素直に出し合って、分け与えができたら、もっと教会らしい教会になるだろうと思います。
みんなで、信仰により、喜びも悲しみも背負い合い、「分け与える」ことのできる教会に成長してゆきましょう。