| 今月の説教要旨 2005年11月 |
| 2005年11月6日(聖霊降臨後第二五主日) |
『神の支配に委ねて』
テキスト=特祷(特定27)
アモス書 第5章18〜24節
テサロニケの信徒への手紙一 第4章13〜18節
マタイによる福音書 第25章1〜13節
本日の特祷では、「全能の神よ、何ものもあなたの支配に逆らうことはできません。どうかこの世の変動の中においても、常にみ国の到来とみ心の成就を望み、確かな信仰をもってひたすら主に仕えさせてください。」と祈っています。
天地創造以来、宇宙万物と秩序は「神の支配」の下にあります。しかしながら、人間は長い歴史の中で、「神の支配」に逆らい、神の国到来の計画をどれほど妨げてきたでしょうか。
神は人間をも祝福された者として創造されました。しかし、その人間はどれほど多くの尊い命をないがしろにしてきたことでしょうか。それも「神の支配」を軽視したり、逆らってきたことの結果です。
旧約日課を見ますと、「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。」(アモス書第18節)と預言者アモスは言っています。
アモスの時代は政治的、軍事的には隆盛を誇った時代でしたが、社会的には不正義、不道徳が著しく、そこには著しい宗教的堕落が見られた時代でした。礼拝儀式も形式的で空虚なものとなっていました。み言葉を軽視し「神の支配」から遠ざかっていたのです。
この頃は「主の日」についての考えはまだ薄く、「収穫祭の日」として使われていたようですが、それでも、新しい年の幸運を期待する日ですから、来るべき神の恵みの訪れの日という意味もありました。追って後期預言者時代、新約の「神の国」思想に発展してゆきました。
アモスはこのような時代背景の中で、厳しい審判の言葉を告げ、警告を発していたという訳です。やはり、「神の支配」を曲げるイスラエルへの叱責でありました。
続いて使徒書の『テサロニケの信徒への手紙』ですが、当時、この教会にもいろいろ問題が生じていました。一つは、社会からの誘惑に乗って教会信徒の多くが道徳的な罪を犯していたことです。そしてもう一つは、主が再びおいでになって、「神の国」を完成されるという信仰から離れ、脱落信者が増えていたことです。つまり、主のみ心を疑い、「神の支配」への信仰を失う脱線者が多く居たということです。そこにこの書簡がパウロによって書かれたといういきさつがありました。
主イエス様のお働きは、この乱れた、不信仰な世界に、「神の支配」「神の国」を告げ、もう一度、それをそれを取り戻すというか、その完成・樹立を計るものでありました。
それなのに、高慢な人間は「神の国」「神の支配」ではなく、「人間の国」「人間の支配」のことばかり考えています。どこまで行っても人間は自己中心的です。
主イエス様の十字架の死は、その計画が失敗したかのように見えました。しかし、主イエス様はその死をもって「神の支配」への完全服従の道を示されたのです。そして復活され、弟子たちや多くの人々を立ち上がらせ、今日に至るまで世界中の教会を用いて「神の支配」「神の国」完成に向かって働いておられるのです。
主イエス様は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)と言われました。「神の支配」の時が来ているのです。希望を失ってはなりません。
現代は確かに世相が乱れに乱れています。毎日のように起こっている殺人、金銭略奪、テロ事件、虐待、差別等社会不正義が横行し、人々は不安におびえています。また、ガンやその他の難病で苦しむ人々、いつ死ぬのかとおびえる人々も世界に多く居られるでしょう。
神は「全てのものの主」「命の源である主」であります。
このような社会不正義や病気等とわたくし達は勇気もって、主の助けを借りながら戦わねばなりません。しかしながら、その一方で、「神の国」の到来を信じ、「神の支配」に身を委ねて生き抜く心を固めねばなりません。「神の支配」の中に居ることは「主と共に居る」ことだからです。
最後に、本日の福音書は、「神の完全支配」の「時」に対して、「用意」(3、10節)を怠らないように勧めている主のみ言葉であることを心に留めたいと思います。