今月の説教要旨
2005年12月
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2005年12月4日(降臨節第二主日)

『最大の預言者キリストと聖書』

テキスト=降臨節第2主日特祷、旧約日課(イザヤ書 第40章1〜10節)

 本日の特祷に、「あなたは悔い改めを宣(の)べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました。」とあります。

 あきらかに「預言者」の働きと<神の言>にわたしたちの意識を向けさせようとしています。「預言者」は「予言者」ではなく、<神の言>を<預かる>人です。

 また、預言者イザヤは「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。(イザヤ書40:3)」と主から命ぜられているように、「わたしは道であり…(ヨハネによる福音書14:6)」と言われるイエス様の道=神の歩まれる道を<神の言>をもって準備し、整える働きが「預言者」の働きの中心であります。

 現代の「預言者」の働きを担う人々の話は次週に譲りますが、少なくとも、イエス様がこの世においでになるまで、多くの「預言者」が活躍し、旧約聖書を残してくれました。そして、イエス様以後も、「使徒」と呼ばれる人たちがその役を担い、新約聖書を残してくれました。

 でも、異邦人サマリアの女は「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。(ヨハネによる福音書4:19)」と告白し、シロアムの池で眼をいやしてもらった盲人も、「あの方は預言者です(ヨハネによる福音書9:17)と告白しました。ですから、本当は、最大の「預言者」はイエス・キリスト様ご自身なのではなかったでしょうか。

 そうしますと、この最大の、真の「預言者」のことを書き記し残してくれた預言者や、全ての聖書記者たちの働きはなんと尊いものであったか分かってくるような気が致します。

 本降臨節第2主日は、古くから「聖書の主日(バイブル・サンデー)」として守られてきました。(文語祈祷書のこの主日の特祷はその趣旨がよく表されていますが、改正祈祷書では「聖書を読む前の祈り」(134ページ)として残されていますのでご参照ください。)この機会に、わたくしたちにとって、聖書とは何かについてほんの少し学びましょう。

 日本聖公会の憲法(綱憲または聖公会4綱領)の第1ヵ条で、「旧約及び新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救を得る要道を悉(ことごと)く載せたるものと信ずる。」とうたわれています。これによれば、聖書は神自身を指し示し神の教えを表すものであること、即ち神の言であることが明らかです。しかも聖書は「救い」にあずかるに必要な事柄の一切全てが書かれていて、救いに至る教えとしては完全無欠なものという性格まで強調されています。つまり、「付け加えることも除くことも許されない(コヘレトの言葉3:14)」ものなのです。

 そういう意味では、聖書がなければ、キリスト教信仰は成り立たず、わたくしたち信者には「無くてはならないもの(ルカによる福音書10:42)」だということです。

 次に、聖書は信仰によって書かれたものであるという点で、他のどんな優れた書物とも比較できないものであることも知らねばなりません。

 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれた、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(テモテへの手紙二3:16)」 「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜならば、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神の言葉を語ったものだからです。(ペトロの手紙二1:20〜21)」

 み言葉の「神聖性」が余すところ無く表現されています。従って正しい読み方も大切です。聖職者も信徒も気をつけねばならないことでしょう。信仰によって書かれたものですから、信仰(神の導き)によって読まねばなりませんし、礼拝での説教を聞くということにおいても 同じことが求められます。ですから、難しい部分もあるので、「教会を通して」読み、聞くことも大切なのです。

 このような聖書の本質・性格から教えられることは何でしょう? 教会・クリスチャン生活の基本はみ言葉に聞き、み言葉に生きる、ということです。聖書によって励まされ、慰められ、戒められ、教えられ、決断させられ、赦され、感謝させられて生きること、それが聖書を与えられたわたくしたちの生き方なのです。神の言、即ちイエス・キリスト様と共に生きる者の姿だと思います。

 わたくしは個人的には、聖書は「天国への道路地図」のようなものだと思っています。道路地図がないとどんなに不便でしょうか。殊に、車を運転して見知らぬ所へ行くとき、本当に頼りになります。道路地図は不完全ですが、「天国への道路地図」は完璧です。お棺になぜ聖書を入れてあげるのか一度考えてみてください。