今月の説教要旨
2005年12月25日
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2005年12月25日(降誕日)

今月(2006年1月)の説教要旨は2005年降誕日のものを載せています。

『「生」の根拠』

テキスト=ヘブライ人への手紙 1:1〜12
ヨハネによる福音書 1:1〜14

 主のご降誕の祝福が皆さんの上に豊かにあるようお祈りいたします。

 主は「あなたはわたしの子、わたしが今日あなたを産んだ」(ヘブライ人への手紙1:5、詩編2:7)と言われました。わたしたちの「生」の根拠が、ひしひしと伝えられています。

 今日、かわいい子どもたちの命が無情に奪われてゆく事件が相次いでいて、なんという世界になったのかと嘆かざるを得ません。人間の命、「生まれること」の神秘さ、重さ、尊さというものを正しく認識できないことの結果ではないでしょうか。キリスト様のご降誕は、わたくしたちの命は神様からのプレゼントであり、「生まれること」の意味を指し示す出来事だったのです。

 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定 められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ローマの信徒への手紙1:3〜4)と聖パウロは言います。他方、福音記者聖ヨハネは「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネによる福音書1:13)と言っています。

 確かに、キリスト様の命もわたしたちの命も肉体的・血族的な意味合いでの根拠を持ってはいますが、それ以上に「神によって生まれた」ことを伝えているのは明らかです。人間は、神様からの恵みのしるしとして「神によって生まれた」という意味です。このことは当然、「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)という言葉にさかのぼらねばなりません。要は、「生」の根拠は正に神にあるということでしょう。

 英語では「生まれた」ことを「I was born(生まれさせられた)」と言います。受身形の表現であるように、人は誰も、自らの力で能動的に生まれることができないということ、すなわち、聖書の「生まれる」という意味をよく表しています。

 「神によって生まれた命」という表現は、神によって「生かされた命」とも言い換えられます。人が生きるとき、確かに、どんな重荷を背負うときがあっても、「生きよう」という強い意志を持たねばなりませんが、他方、「生かされている命」というものを認識していなければなりません。そうでなければ「生きること」の喜びや、「生きていること」への感謝の思いがなくなってしまうからです。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15:16)

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わた したちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたち の内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わ たしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4:9〜10)

 これらの言葉によって、わたしたちの命は、神が選び、神が愛してくださった故の命であることが明らかです。それ故、「生かされた命」は、神によって選ばれ、神によって愛された命でもあると教えられるのです。

 家族や友人に愛されていることを知らない者は、ほんとうに不幸な人に違いありませんが、それ以上に大切なのは、一人一人の人間が、神に愛されていることを知っていれば、どれほど幸せな人で、どれほど、「生かされている」ことへの喜びを抱くことができるかということです。

 このようなことを深く認識すれば、わたしたちの命というものが、神からの尊い、且つ、最大のプレゼントと言わざるを得ません。贈り物は誰から頂いたものであってもうれしいものです。神からの贈り物を知っている人は、どんな大きな喜びを持って生きるでしょうか。

 こういったことを知らないところに、現代の多くの、人間でない人間、大人でない大人が生まれてきている原因があるのではないかと思います。クリスマスの出来事の中に、わたしたちの命が、どれほど尊いものであるかを悟らされるしるしを確認し、一人一人の命の存在を喜び、感謝しつつ、このクリスマスに心から主を賛美したいものです。