F 今月の説教要旨
今月の説教要旨
2006年3月5日
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2006年3月5日(大斎節第1主日)

『神の愛を受ける大斎節』

テキスト=マルコによる福音書 1:9〜13

 古くから「大斎を失う者は一年を失う。」と言われてきました。大斎節は、それほど、その過ごし方において、信仰生活の一年に重要な意味を持つものです。

 大斎節は大斎始日(灰の水曜日)から復活日までの、主日を除いた四十日間です。

 その由来は、主イエスの四十日間の「荒野の誘惑」からのものであります。主イエスは神の子としての公生涯に入る直前、いわば、最後の心備えのために断食と祈りをもって、「神に聞く」訓練としてこの時を持たれました。

 さらに、大斎始日に「灰の刻印式」がされることもありますが、ユダヤ人達の習慣に「灰をかぶる」習慣があったのでもう一つの由来ということができます。

 「灰をかぶる」のは、悲しみや苦しみを表すしるしであったように、宗教的には「悔い改め」を表すものでありました。

 今日、大斎節は「克己訓練」の時とされていますが、人間的な信仰行為としての意味からです。主イエスの、「荒野の誘惑」も、主イエス自らが主体的になされた自己訓練と考えられますから、これも人間的信仰行為という側面であります。

 しかし、一方、「荒野の誘惑」は、神様が主イエスに与えられた特別な時としても見ることができますから、むしろ神的なものと言えるでしょう。

 そういう意味で、人間的訓練の機会として大斎を捉えるだけでは、律法主義・戒律的となり、「ねばならないもの」となって、形式化する危険性が生じてきます。

 ですから、「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(マルコによる福音書 1:12)、「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」(マタイによる福音書 4:1)、「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」(ルカによる福音書 4:1)と聖書に書かれているように、これは神様から与えられた特別の時として素直に受け取るべきでしょう。

 聖パウロの「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(コリントの信徒への手紙二 6:2)という言葉からも、大斎は、神が与えられた特別な恵みの時として受け容れることが大切だと思います。

 「荒れ野の誘惑」の出来事は、父なる神がその子イエスを、サタン(悪魔)を用いてまで、これからの主イエスの神の子としての働きのために訓練の時を与えられたというものです。主イエス様の側からは、苦しい試練の時となりました。まさに親の子に対する愛のムチの時だったのではないでしょうか。

 訓練というものはたいてい「苦しさ」が伴います。そして、そこでは人間の弱さがあらわにされるものです。信仰的には、罪と汚れを思い知らされ、これを自覚させられるのです。

 この時、「悔い改め」の心が生じ、神の前での謙虚さが生まれてきます。のみならず、その弱さの自覚の中で、主の光と愛、主が共に歩き支えてくださるという恵みを知らされます。ですから、大斎は、悔い改めの時であるばかりか、「神の愛」を感じ取らされる時であると言わなければなりません。

 使徒書、福音書では共に「洗礼」のことが取り上げられています。

 「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神の正しい良心を願い求めることです。」(ペトロの手紙一 3:21) 「神の正しい良心」とは「神の愛」のことです。

  イエス様の洗礼の時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコによる福音書 1:11)という父なる神の愛の声が聞こえたと記されています。大斎節の最初の主日に、何故、「洗礼」のことを思い起こさせるようになっているのでしょうか。

 それは、大斎を迎えて、また、信仰の訓練の時を迎えて、「人間の原点に帰れ」と命ぜられていることを知るためだと思います。洗礼はわたしたちの信仰の原点です。そして、信仰の原点は「神の愛」に他なりませんから、一人一人が「神の愛に帰れ」と促されているのだと思います。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書 3:16)

 洗礼は信仰の原点ですし、信仰の原点は、まさに、この言葉に示された「神の愛」です。

 大斎は苦しい信仰の訓練の時であっても、主の深い愛を感じ取ることこそ、大斎の主旨であることを忘れてはなりません。