| 今月の説教要旨 2006年4月2日 |
| 2006年4月2日(大斎節第5主日) |
『一粒の麦の死とその恵み』
テキスト=ヘブライ人への手紙 5:5〜10
ヨハネによる福音書 12:20〜33
春らしい季節になってきましたが、麦の収穫風景を最近見たことがありません。子供の頃冬の寒い日に、麦踏みをしたことが懐かしく想い出されます。
せっかく冷たい土の中から出てきた青い麦の苗を踏んづけてしまうのはなんだかかわいそうな気もしましたが、そうやって踏んづける方が、そのあと元気よく成長するのだと教わりました。麦の種は土の中で死んで新しい命の芽を吹き、後に豊かな実りをもたらしてくれます。大きな自然の恵みを肌で感じ取れたものです。
十字架の日を間近にして本日の福音書では、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書 12:24)という、イエス様ご自身の十字架への強い決意を示す言葉を読みました。イエス様の十字架の死は「一粒の麦の死」であり、わたくしたちに、神の深い愛と罪の赦しという豊かな実りを与え、新しい命に生きる強い力を与えるものでありました。
この「一粒の麦の死」としてのイエス様の使命は、使徒書では「永遠の大祭司」のお働きでもあったと教えられています。特祷ではそれが的確に要約されています。「み子、イエス・キリストは大祭司として来られ、その血をもって至聖所に入り、ただひとたび永遠の贖(あがな)いを全うされました。」
「大祭司」とは、ユダヤ教の祭司団の長で、神殿での礼拝で重要な役割を担う人でした。礼拝では祭司たちによっていつも犠牲の供え物が捧げられていましたが、年に一度だけ、大祭司唯一人が神殿の最奥部に入り、人々の罪の赦し(贖罪)と聖めを得るための、犠牲の供え物と、神と人々の間の執り成しの祈りを捧げることが許されていたのです。
十字架にかかられたイエス様のお働きを、この「大祭司」の働きになぞらえている訳です。ただ、十字架のイエス様は、「永遠の贖罪者」「永遠の仲保者」「永遠の大祭司」であったことを見逃してはなりません。
「至聖所」とは、犠牲が捧げられた神殿の最奥部のことです。ですから、イエス様については「十字架」「ゴルゴタの丘」ということになります。「至聖所」で動物の血が捧げられたように、イエス様の血が十字架上で父なる神に捧げられたのです。
「贖い」は、もともと、奴隷を買い取ることを意味していましたので、罪と弱さの中に閉じこめられた人類を自由にし、解放してくださったイエス様のお働きのことです。また、十字架の犠牲によって、罪の奴隷であるわたくしたちを無条件に買い取ってくださったことを意味します。
先日紹介しました映画『ナルニア国物語(ライオンと魔女)』は、イエス様の「永遠の大祭司」としてのお姿を見事に描いていました。また、「一粒の麦の死」(十字架)、それによってもたらされる「多くの実」(贖罪と復活)が豊かに描かれていました。
四人の兄弟姉妹が、第二次世界大戦時の避難生活に入った古い屋敷内での隠れんぼのはずみから、悪魔(魔女)に支配された冷たい雪と氷の世界「ナルニア国」に迷い込みます。
その世界は、見た目は幻想的で美しい世界なのですが、実は恐ろしい世界でした。魔女とそれに支配された野獣たちの軍隊と、彼女の奴隷たちとならされた半人半獣の姿をした人々の世界でした。
四人の兄弟姉妹は、そんな中でも、やさしい友人(半人半獣)と出会い、事の次第がわかり、一緒になって魔女と戦うのですが、何度も恐ろしい目にあいます。
そのうちに次男坊が魔女に捕らわれ、窮地に立たされてしまいます。そんなとき、大きくてやさしい一匹のライオンに出会うのです。ライオンは、あの次男坊を救うために、ついに天幕の中で魔女と会見。自分の命と引き替えに次男坊を解放するという取引をしたあと、石舞台の上で魔女の剣で殺されるのです。嵐が起こり、周囲は恐ろしい化け物がいっぱい。その瞬間は静寂と悲しみに包まれますが、しかし、しばらくすると、氷にされて殺されていた友人等の半人半獣たちも生き返り、次男坊も解放されます。ライオンも甦り、その後、兄弟たちは友人たちと共に勇敢に魔女や軍隊と戦い、圧倒的な勝利を収めます。
ライオンはやがて、みんなを励ました後、見えない世界(復活の世界)へ去って行きました。兄弟姉妹たちは元の世界に帰り、家主の教授から貴重なメッセージを受けて、この物語が終わります。
ライオンの石舞台(ゴルゴタの丘)での自己犠牲の死によって悪魔は滅び、全てが復活へと導かれ、平和なナルニア国(神の国)が回復されるところに、「大祭司」「一粒の麦」のイエス様のお姿が見られるのではないでしょうか。