| 今月の説教要旨 2006年6月 |
| 2006年6月4日(聖霊降臨日) |
『聖霊降臨日 岸和田復活教会(ホール・牧師館落成の日)』
使徒言行録2:8に、「どうして私たちはめいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」とありました。このときの人々と同じように、私たちも聖霊が降ったということを疑問に感じます。「どうしてこのときの弟子たちに聖霊が降ったのか。聖霊は今の私たちにどのように働きかけているのか。」聖霊降臨の日の出来事は、使徒言行録に記されているとおりです。イエス様の昇天の後10日目。弟子たちが祈っていると、炎のような舌が一人一人の上にとどまり、弟子たちは福音をいろいろな外国語で語り出しました。
聖霊のとても大きな力が働いて、弟子たちに大きな変化が起こったようです。それまで福音を自分の言葉で語ることもほとんど無かったような人達が、外国語で多くの人々に聞こえるような大きな声で語り出しました。神様の偉大な力が聖霊という形で現れて、弟子たちを強力に導いていった。イエス様のなさった奇跡に匹敵するような力が目に見える力でここに集中した。そして、弟子たちの語っていることやその姿に多くの人々が感嘆した。そんな印象を持つ場面です。そして、もしも私たち自身にも聖霊がこのように強力に働きかけて導いてくだされば、本当にすばらしいのではないかとも思います。あるいは、このようなことをなさる神様は、私たちにいつもたくさんのお恵みをくださっているのだと、この聖霊降臨の出来事から、私たちは知るようになります。
福音書の箇所、ヨハネによる福音書20:22に、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とありました。「息」とは、天地創造の物語によれば、「命を与えるもの」でした。ですから、「聖霊」は、私たちに命を与えるもの、あるいは命そのものではないか、私たちの体の中で躍動する神様の力ではないかと思われます。けれども一方で、誤解を恐れずに言いますと、聖霊とは果たしてそれだけのものなのでしょうか。聖霊降臨の出来事や、聖霊が私たちに送られてくるということは果たしてそれだけの意味しか持たないことなのでしょうか。聖霊がそんなに強力で恵み深いものなのであれば、聖霊が送られれば、イエス様はもう要らないということになってしまいます。聖霊とイエス様との間には何かもっと深い関わりがあるのではないでしょうか。十字架につけられ、復活されたイエス様と聖霊と、そもそもどんな関わりがあったのでしょうか。
聖霊降臨の出来事の描写から、弟子たちが自分では意図しないうちに聖霊によってしゃべらされているような印象を受けます。結果が良ければそのあり方は問題ではないのかも知れませんが、何か不自然な感じがします。聖霊が強力に私たちを導いて、一本の道に乗せて行く。まるで動く歩道のスタートのところに、ポンと置かれて、自動的に前に進んで行く。そんな働きが聖霊の働きだったのでしょうか。使徒言行録の聖霊降臨の出来事は、とてもすばらしいことが弟子たちに起こって、それ以後弟子たちは懸命に福音を伝えていきました。それでこの日が教会の誕生日と言われ、今日落成式を迎えて、新しい出発をして行く岸和田の教会の皆さんにとって、本当にふさわしい日です。ただ、当の弟子たちにとっては、すばらしい、うれしいと手放しで喜べるような出来事だったかというとそうでもなかったのではないかと思います。つい先程までは、イエス様が主であるとか、イエス様を通しての神様の救いを信じようなどと大きな声で叫ぶことなど、考えもしなかったのに、今は、その自分たちの思いとは違ったことが自分の身に起こってしまっている。弟子たちはこのときを境に、急に心臓が強くなったとは思いたくありません。むしろ、今までと全く同じく、人間的な弱さを持ったまま聖霊降臨という出来事の真っ只中にいる。彼らの中には、ある種の恐怖があったのではないかと思います。弟子たちは、イエス様が死んで復活されたことを通して、本当に大きな恵みを受けたのですが、他の人々にとってそれは、とても愚かなことだとしか思えません。十字架の上で力無く声を上げて死んでしまったような人間が救いであるはずがありませんし、その人が生き返ったなどという事を簡単に信じることなどで来ません。弟子たちはそのことを良く知っていたはずです。それにもかかわらず、イエス様のことを大声で語り始めておりました弟子たちにとって聖霊降臨の出来事は、大きな恵みのときであり、同時に重大な危機でもありました。聖霊は、この時と同じく世界にとって、教会にとって、私たちにとって重大な危機をもたらすものだというと言い過ぎでしょうか。重大な危機。それは、受け入れがたいものを受け入れるようにと神様が決定的な力を持って動かれる時ということができないでしょうか。
私たちにとって都合のいい結果をもたらすために聖霊が送られるというより、むしろ、その逆のこと。一番受け入れがたいこと。あの弱々しい、何の力もなかった惨めな無残な死に方をしてしまった方が、私たちにとって救いであったということ。私たちの救い主はあの弱い方であった。弱いからこそ救いであったというのは、とても受け入れがたいことですが、これは私たちにとっての真実です。弱いからこそ救い主だということへと、いつも私たちの目を向けさせる、心を向けさせ、そのことから本当の恵みを受けるようにと、聖霊はいつも私たちを促しておりました。強いもの、見た目に良いもの、人目見て価値ありと見えるものにどうしても心を奪われてしまう私たちですが、そんな私たちに与えられている神様の恵みが、弱さの中にあった救い主でありますし、その救い主に心を向けるようにと促す聖霊の働きなのだという事を、今日、この聖霊降臨の日に、そして、落成式をもって新しい宣教の業に押し出される日に、心に深く刻みたいと思います。