今月の説教要旨
2006年7月2日
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2006年7月2日(聖霊降臨後第4主日)

『分け合う世界へ』

テキスト=コリントの信徒への手紙二 8:1〜15

 聖パウロは彼の伝道旅行中、「マケドニア州の諸教会」(主にフィリピの教会、テサロニケの教会)で、大献金運動を展開しました。

 それは、紀元48年頃に起こった大飢饉に苦しむエルサレム母教会を応援するためのものでした。マケドニア州の諸教会の人々も、決して他を援助できるほどの豊かさの中に居た訳ではなく、むしろ貧しい人々の群れでした。それは、聖パウロの、神の愛に基づく交わりについての教えと彼の熱い心に動かされてのことです。この援助活動によって、エルサレム教会が、どんなに力づけられ、励まされたことでしょう。

 テキストの舞台は比較的豊かであった発展国ギリシャのコリント教会です。ここでは思うように援助活動はうまく行かなかったので、聖パウロは力を入れて献金協力を勧めています。

 「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりがあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(8:14)


 今世界は「ゆとり」のある国や地域と、貧しい国や地域との<格差>の問題がクローズアップされています。世界は食糧や資源において、「釣り合い」が取れなくなってしまっている訳です。

 資本の集中化が進む一方で、食料や医薬品等も、ある所にはあっても、無い所には無いのです。無い所の人々の現状は、いろいろな報道で伝えられているように、実に悲惨なものです。

 殊に、アジアの共産主義国でさえ、武器や核兵器にどんどんお金をつぎ込んでいるくせに、日毎の糧にも恵まれない、おびただしい数の人々を見殺しにしている国もあるほどです。時代や文化がどれ程進んでも、「貧富の格差」という問題は無くならないのかもしれませんが、悲しいことではあります。

 <平等>ということにはいろんな意味があると思いますが、その一番根底になるべきことは、<生活の均等>ということではないでしょうか。

 私も戦中・戦後の食糧難の時代を経験しました。僅かな肉片を兄弟で奪い合ったこともありますが、それでも、あの頃はみんな、無けなしの食べ物を分け合って生きてきたように思います。分け合って生きることが、こんなにもむつかしいことかと思い知らされる今日では、もうあの時代が何か懐かしくさえ感じられます。

 使徒言行録の記事は初代教会(エルサレム教会)が、<分け合う>ことがその特色であったことを伝えています。

 「信者たちは一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」(使徒言行録 2:44〜45)

 「信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒言行録 4:32)


 又、本日の旧約テキストにも、「生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」(申命記 15:11)とありますが、旧約聖書時代でも、貧しい人たちへの深い配慮が払われていたことが窺い知ることができます。

 <教会>は神の愛に基づく<交わり>の世界です。<交わり>(コイノニア)という言葉の元の意味は<分け合う>ということです。ということは、教会は<分け合う>ことを特色とするところであり、<分け合う>ことは教会の本質でもあることになります。

 現代においても、海外援助を宣教の一つの大きな軸にしてきました。戦争直後私たちも米国から、<ララ物資>(名前の由来は忘れました)なるものの恩恵にあずかり、ラードや乾パンの配給を受けました。中学生頃まで、頭から足先まで、米国の古着に包まれていたのです。

 教会は、<分け合う>世界の象徴であり、かつ、それを実践してゆく世界の先がけとなって行かねばなりません。