今月の説教要旨
2006年9月3日
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2006年9月3日

『幼児がえり』

テキスト=マルコによる福音書 10:15

 先日、長期入院中の母(91歳)がトイレでこけて頭を打ち、別の病院に運ばれました。脳挫傷・くも膜下出血という診断でしたが、いまは少し持ち直しています。

 しかし、今度の事件で老人認知症が急激にひどくなり、わたくしたち自分の子供への認識もおぼつかない状態になってしまいました。なんだか遠くへ行きつつあるような寂しさを感じる一方で、苦労してわたくしたちを育ててくれたことを想う不憫さと身近さが、今までにない気持ちになって強く胸に湧き上がってきます。

 見舞いに行くと、同じ話のくり返しですが、母は嬉しそうです。別れぎわには、あどけない顔で手を振ってくれます。とても無邪気な様子に見えます。穏やかさに満ちています。これを<幼児がえり>と言うのでしょう。今の母の姿は純真無垢な幼児そのものです。

 わたくしも齢のせいか、最近とみに、体力が減退し、お陰で体調が芳しくありません。調子が悪いと、あれやこれやと愚痴を言うくせに、自分では健康のために何も努力をしない、と家内に叱られています。

 人間の肉体というものは、齢と共に衰えてゆくものですし、脳の働きも衰えます。そして、体力が衰えると精神力も弱められるという一面があります。

 でも、その「精神力」というのは、いわゆる「気力」のことであって、人間の「精神」や「心」というものは、ときにはその成長を止めたり、逆方向に動いたりすることがあっても、死ぬまで成長し続けるものだとも思います。人間の名誉にかけても、成長し続けなければならいものだと思うのです。

 元々、人間の「心」は崇高なもので、“磨けば磨くほど光るもの”だと言えないでしょうか。そうでなければ、「精進」などというものも無意味になります。そして、道徳も倫理も宗教もいらなくなってしまうと思います。

 その証拠に、いくら齢をとっていても素晴らしい心の人は世界中に一杯おられます。

 唯、「成長」と言う時、「心」の場合は、それを止めようとする要素も出て来ます。経験や知識の積み重ねだけで人間の心が成長する訳ではありません。却って、経験や知識の積み重ねによって、不要物や不純物みたいなものまで、たくさんわたくしたちは持ち合わせてしまっています。不純な心まで一杯抱え込んでいるため、本当の意味での「心の成長」は大変むつかしいことと言わねばならないのかも知れません。ヘドロのような汚れを浄化して行くといいうことも、「成長」の大きな課題です。

 人間はみな、心の<幼児がえり>をしてゆかなければなりません。純真無垢な人間へと<幼児がえり>して行くことが、大切な点だと思います。わたくしたちは、それを、「信仰」という世界で励んでいるということではないでしょうか。

 イエス様は、「だれでも、子供(文語=幼な子)のように神の国を受けいれる者でなければ、そこに入ることができない。」(マルコによる福音書10:15)と教えられました。

 わたくしたちの目標は、いつの日か、神の御国に迎えられ、主の御腕に抱かれることです。そのために、いびつな大人でなく、純真無垢な神様の子供へと<幼児がえり>をして行かねばなりません。「信仰」とは主が備えられた<幼児がえり>の世界なのです。

 この原稿を書き終えようとしている時、あの柔和で純真無垢な母の笑顔を再び想い出しています。