| 今月の説教要旨 2006年10月1日 |
| 2006年10月1日 |
『泣き言よりも感謝を』
テキスト=民数記 11:4〜29
かつてエジプト脱出途上にあったイスラエルの民らは、食料の危機に直面した時、不平を言って指導者モーセを咎(とが)め、苦しめました。イスラエルの民とモーセの苦しみを顧みられた神様は、マナと呼ばれるパンを一杯与えて彼らをお救いになりました。
マナはその日以来ずっと毎日与えられたのですが、彼らは遂に、マナに飽きて、今度は、肉を食べたいと「泣き言」(民数記11:5、10、13節)をモーセにぶっつけ、またまた彼を大いに困らせ、苦しめた時のお話が今日の旧約日課に書かれています。
エジプトに居た時は、肉、魚、きゅうり、メロン、葱、玉葱、にんにく等を食べていたというのですから、驚きです。こんな、今と少しも変わらない豊かな食材を得ていたのでしょうか。こんな豊かな食べ物を一旦経験してしまうと、それらが無くなって食べられない状況になれば、余計に辛いことでしょう。
わたくし自身、一時前、胃腸の調子が悪いため僅か一週間ほど、食べる物に節制したせいか、それから後は、食べる物どれもこれも、本当においしいのです。今まで敬遠しがちだったカボチャ、さつまいもも、おいしくいただいています。あまりおいしくいただけるので、食べられない病気の前兆かと妙な疑いまで抱いたほどです。
未開発国などの食糧難の中にある多くの人々、殊に、餓死して行く子供達のことを思うと心が痛みます。一人や二人なら、ちょっとした食べ物を、子供達や孫達にするように、宅配便で送れるのにと思います。
<飽食の時代>と言われるようになって随分久しくなります。<飽食>とは<腹一杯食べること>、<食糧が十分足りていること>と辞書に書かれています。しかし、<飽きながら食べる>というゼイタクな食べ方、モッタイナイ食べ方をも意味しているように思えます。
マナ(パン)だけという食べ物状況に<飽き>て肉を欲しがったイスラエルの民にも多少同情の念を抱くと同時に、豊かな食糧状況の中で<飽食>しているわたくし達は彼らよりもっと大きな罪を犯しているのかも知れないという思いに至ります。
アダムとエバの、禁断の実への<食欲>から人間の罪が入り込んで行きました。エジプト脱出途上のイスラエルの民らも、食べ物についての「泣き言」(不平)を言うことから神に対する罪を犯して行きました。
彼らの「泣き言」はモーセを苦しめ、神様を「激しく憤ら」せました(10節)。それでも結果的には、神様はウズラの大群を飛ばせて彼らに肉を与えられたのですが、彼らの貪欲さに憤り、疫病を与えられたので彼らの多くは死にました。その場所は「貪欲の墓」と名付けられています(34節)。
わたくし達にとってパン(マナ)や肉の問題は極めて重要です。そして、霊的な食べ物の問題はもっと大切です。今、霊的食事の式(聖餐式)を執行する司祭減少の問題は深刻な状況になっています。
先主日、無牧になった新宮の教会で聖餐式をしてご奉仕させて頂きました。司祭が居ないと、大切な命の糧(聖餐)を頂くことができません。
新宮の方々は聖餐式の無い週は、みんな交代で、「みことばの礼拝」を司式しながら主日礼拝を守っておられます。なれない礼拝司式に戸惑いながらも、会衆の方までハラハラしつつ、本当に全員で支え合って礼拝をしていると聞いて、何か心を打たれました。
司祭が居ないと「泣き言」(不平)を言うのでもなく、むしろ、月一回〜二回伝道区の司祭達の巡回で、いろいろな司祭達と出会い、いろいろな説教を聞けることの恵みを感謝しているとのことでした。<不足>が<泣き言(不平)>を生み出すのではなく、それを<恵み>として受け取る時、<感謝>が生まれます。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二 12:9)
「神からいただいた恵みを無駄に」(コリントの信徒への手紙二 6:1)しないで、「どんなことにも感謝」(テサロニケの信徒への手紙一 5:18)できる人、教会でありたいと思います。