| 今月の説教要旨 2006年11月5日 |
| 2006年11月5日(聖霊降臨後第22主日) |
『神を愛すること、隣人を愛すること』
テキスト=特祷:特定26・マルコによる福音書 12:28〜34
今日の福音書は、『心を尽くし、智惠を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』という、旧約以来の最も大切な教えについての記事です。場面は、ユダヤ教律法学者とイエス様とのやりとりのところです。
律法の専門家であるユダヤ教の律法学者は、多くの場合、イエス様の教えを理解しませんでしたが、ここのところは珍しくイエス様のこの教説に理解し共鳴したので、イエス様が褒めておられます。
この神と隣人への愛の教説は今日の旧約日課(申命記6:1〜9)が出どころになっていることがお分かり頂けるでしょう。その時はこの教説の直ぐ後に、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(6:6〜8)とも付け加えられています。大変な強調のし方です。何故これほど「子供たちに繰り返し教え」ねばならなかったのでしょうか。
エジプトを脱出したイスラエルの民がカナンに定着したのは紀元前1400年頃だそうです。
カナン原住民は「乳と密の流れる土地」で農耕を営む民族でした。これに対して、後から入って来たイスラエルの民は元々遊牧民でありました。住む場所もカナン人は平野部で、イスラエル人は丘陵地帯でしたが、いざこざ時代を経験しながらも、いつしか両民族とも色んな面で妥協して融合して生活を営むようになって行きました。
宗教面ではどうだったでしょう?
カナンの方は、農耕文化で安定していましたから、五穀豊穣を祭るバアル宗教(多神教)と言われるものでした。豊かな収穫を適当に感謝し祈ればよいと言ったら言い過ぎかも知れませんが、比較的緩やかな宗教、信心であったようです。豊かな地域では人間ってそういうものなのでしょうか。
他方、イスラエル人は険しい荒野生活を強いられてきた民族ですから、宗教も厳しいものでした。絶対服従が求められる唯一神教のヤーウェ神を祭るものでした。「偶像を拝んではならない」「わたしのほか何ものをも神としてはならない」という程厳しく、その神は宗教的浮気に対して「怒る神」「ねたむ神」でもありました。荒野では、飲まず食わずの苦しみ、厳しい自然との闘いなどを何度も経験して来た民族ですから、神様の恵みへの欲求心は強く、神の怒りに対しても、相当敏感で神経質になるのは当然でしょう。彼らの、叩き込まれた信仰は厳格なものでした。
ところが、そのようなイスラエルの民がカナンに侵入して来てから、生活も信仰ものんびりしたカナン原住民と妥協、融合して行く訳ですから、彼らの影響を受けずにはいられなかったようです。イスラエル人の、あの厳しい信仰も段々ぬるま湯に浸ってなまぬるいものになって行ってしまいました。そこに、「繰り返し教え……これを語り聞かせなさい。」と強く教えられねばならなかった理由があるのです。
神を愛する心、隣人を愛する心がいい加減になって行くのは、指導者達の心も、神心から、いてもたってもたまらなかっただろうと思います。
あの神の愛、隣人愛の戒めを書いた小さな巻物(シェーマー=「聞け」という語に由来)を手や額にまでくくり付けて忘れないように子供の時からしつけていたということです。きっと子守歌にも歌われたかも知れません。
しばらく陰をひそめていた<いじめ・自殺>の問題が再びエスカレートして来て、深刻な状態をもたらしています。幼児虐待や痴漢・ワイセツ事件も後を断ちません。わけの分からない殺人も多過ぎます。世の中一体どうなっているのかと、誰もが嘆いています。
政府が「教育改革」を叫んでも、尻抜けと思われることが次々と明るみに出ます。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」(コヘレトの言葉12:1)
「青春の日々」では遅過ぎますから、幼児の時から、あの「シェーマー」(愛の教えの巻物)を手や額に四六時中くっつけて過ごす必要があるのかも知れません。
十字架のイエス様はどんなに心を痛めておられることでしょうか。