今月の説教要旨
2007年3月4日
(牧師) 司祭 マタイ 西川 征士

2007年3月4日(大斎節第2主日)

『神との<束縛>に生きる』

テキスト=創世記 15:1〜18

 「その日、主はアブラムと、<契約>を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』」(旧約日課・創世記15:18)

 <契約>という信仰概念から、大斎節の意義と信仰の意味を探ってみたいと思います。

 <契約>の元々の意味は<束縛>でありました。一定の約束のもとに、両者が束縛される関係に入ることが契約を結ぶことでした。人と人との間の契約、部族と部族の間の契約、主と民との間の契約を表すのに用いられた言葉です。

 旧約聖書に見られる主たる<契約>は、神とイスラエルの間の契約という形のものであります。創世記で、アダムが神から、エデンの園の中央の木から実を取って食べてはならないと命じられましたが、これも契約です。

 しかし、アダムはエバと共に蛇の誘惑によって、その契約(約束)を破りました。

 旧約の代表的な契約は、モーセを仲介者としてシナイ山で結ばれた契約(十戒)でありました。神がイスラエルだけを選んで契約関係に入り、これによって、神は自らをも<束縛>されました。反対にイスラエルの民は何度も契約を破りましたから、自らを束縛の中に身を入れていなかったことになります。

 「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(エレミヤ 7:23)

 旧約の預言者たちは、この契約をしばしばイスラエルの民族に想起、回想させて、神への忠誠、神の愛への応答を喚起しています。そして、預言者たちの理解においても、イスラエルは神の律法を侵し、契約を破ったので、神の側においても契約を破棄されたと考えたようです。その契約の破棄は、ユダ王国の滅亡となって現れたものであり、それ故に、新しい契約を結ぶ日が到来するとの預言をするようになりました。

 新約聖書ではこの旧約の契約信仰を継承していますが、預言者が教えたように、それは全く新しい契約であります。その契約とはキリストの十字架です。主イエス・キリストは、血と死を通して神と人間の間に新しい契約を締結されたのであり、その契約の式は「最後の晩餐」であると考えられます。

 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ 22:20)

 このキリストの十字架によって結ばれた神と人間との間の新しい契約は、旧約の契約のように、文字に書かれた契約ではなく、主からの霊的な働きを受けて霊的な契約関係に入ること、十字架の主イエスを信じることによって神との間に<束縛>関係に入るというものでありました。これを、わたくし達は洗礼と聖餐という二つの大きなサクラメントを通して、目に見える契約の機会・場としています。

 このような聖書の、<契約>から、信仰とは契約関係、約束関係であることを知ることができるでしょう。信仰とは「神によって生まれる」(ヨハネ 1:13)世界であるのと同様に、「約束によって生まれた」(ガラテヤ 4:23)世界であります。

 わたくしが聖職を志願するに至るまで、いろいろ悩んだ時期がありましたが、神学校行きを決めた時ですら、すっかり自信を持っていたわけではありません。自分の信仰についても、聖職道への理解も十分明確なものではありませんでした。

 しかし、多くの「わからない部分」を持ち合わせたままではありましたが、全てを神様に委ねる積もりで、自らを神様のクビ輪(ラウンドカラー)をつけるという決心をしたのでした。それは、自らを神との<束縛>の中に身を置くという決断でありました。

 結婚は夫婦の契約、約束によって成立します。即ち、夫婦関係というものは、二人の間と、神との間との契約、約束に基づく世界で、言い換えれば、配偶者双方の間で、また、神との間で、<束縛>関係に身を置くことになるのではないでしょうか。「自由」だけが大切なのではありません。

 大斎節の意義もここに明白となってくるのです。主の十字架を偲び、荒野での修練に倣い、克己訓練の時として過ごすのは、結局、自らを、より一層神との強い契約関係、即ち、神との<束縛>関係に身を置くという試みなのです。

 世俗に縛られながらも、努めて、神との<束縛>の中に自らを置いて行くことによって、神に集中し、聖い恵みにあずかって行きたいと思います。