説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年1月1日(主イエス命名の日)

命名と証人

ルカによる福音書 2 : 15-21

主イエス命名の日の根拠は、「ルカによる福音書」に「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは,胎内に宿る前に天使から示された名である」と記されたことに基づいています。割礼の日の根拠は創世記17章9-14節に記されたことに基づいています。しかし、イエスの割礼を記念することの意味は、パウロが「肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」(ロマ2:28-29)と述べていますように、霊による割礼を受けることによって、キリスト者らしい生き方を生きることと関係があったようです。

そして、イエスという名前は、ヘブライ名で「ヨショア」のギリシャ語名です。ヨショアは「神は救いである」という意味です。まさにイエスという名前は「わたしたちの救いのしるしとして、イエスと名付けられたのです。名は体を現すといわれますので、親(家長)は、さまざまな思いをもって、祈りをもって名前を付けます。それは、今日の私たちも同じです。

きょうは、誕生の証人として、信じて行動した羊飼いの信仰をみていきましょう。

さて、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という、知らせを羊飼いたちは、すぐに信じました。 いきなり言われても、そんなに簡単に信じられるものだろうかとも思いますが、羊飼いたちはこの後で言っていますね。 「ベツレヘムに行こう」と、すぐに信じて行動に移しました。

それは救い主はベツレヘムに生まれるという旧約聖書の預言を知っていたのです。 旧約聖書にミカ書第5章に預言されていた救い主が、待ち焦がれていた救い主が、ついにきてくださったのです。 だから、ベツレヘムに行くのです。 羊飼いたちは、神の言葉を聞いて、すぐに従いました。羊飼いはその日もいつもと同じ生活をしていました。

そこに天使が「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言われているのですね。 あなたが「何かをしなさい」、と一言も言われていません。 でも、羊飼いたちは、その知らせに動かされたのですね。 そして、ベツレヘムに行きました。他人事ではなくて、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」この言葉を、まさにこの自分のことだと受け止めたのです。

彼らは、語りかけられている神の言葉を、自分のことだと受け止めるのです。イエス様の弟子になった人たちもそうでしたね。 弟子たちは、漁師だったペトロやヨハネは、私についてきなさい、というイエス様の言葉を信じて、網を捨て、イエス様に従いました。 

今日の羊飼いたちも、神の言葉に従いました。神の言葉を自分のこととして受け止めるとき、私たちは動かされます。 そして、さらにイエス様に近づくように導かれます。

しかし、よく考えてみれば、この時、羊飼いたちが見たものは、そんな素晴らしい場面ではないですね。
一組の夫婦がいて、赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされている。 飼い葉桶に寝かされているということですから、場所は家畜小屋だったのでしょう。 ある夫婦が、長い旅をしてこなければならなくなって、そして、泊めてくれる宿もなかったので、家畜小屋で子どもを産んだ。 それは悲しい現実ですね。それを、羊飼いたちは探し当てたのでした。

けれどもここで羊飼いたちは、「どうして救い主がこんなところに生まれなければならなかったのですか」とは言いませんでした。 神の言葉が実現しているからです。 天使が言っていました。 「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。 その通りになりました。イエス様の両親が長い旅をしてベツレヘムに来なければならなかったのは、皇帝が住民登録を命じたからでした。 だから、自分の先祖の町に、自分の本籍地に来なければならなかったのです。 羊飼いというのは、当時の社会の最下層に位置付けられていた人たちです。 彼らには戸籍がありませんでした。だから、皇帝が住民登録を命じましたが、彼らは先祖の町に行く必要がなかったのです。

もし、イエス様が家畜小屋以外の場所でお生まれになられたとしたら、そんな人たちが、イエス様に近づくことができるでしょうか。家畜小屋だからこそ、誰でも近づくことができるのです。イエス様の救いからは、誰も漏れることはないということを示しています。救い主は徹底して私たちの側に立ってくださいます。私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださり、どんな人でもご自分のそばに招いてくださっています。 救い主が、神の子が、私たちと同じ人間として生まれてきてくださっています。イエス様は、ここまで身を低くして、私たちの側に立ってくださいました。

羊飼いたちの役割は、イエス様の誕生を見届ける証人でした。 神の言葉が実現したことを証する人でした。けれども、それだけではないのです。羊飼いたちは最後に、神をあがめ、賛美しながら帰っていくのです。 賛美する者に変えられたのです。神に感謝し、神を褒めたたえるようにされたのです。神は、私たちが最終的に、喜びに満ちあふれて賛美するようになることを望んでおられるのです。厳しい現実の中にあっても、私たちは、賛美にあふれて希望のある人生を生きるのです。既に救いに入れられているからです。そして、神と心を一つにされているから力が与えられるのです。

私たちのための救い主が、私たちのところに来てくださいました。だから、私たちはこの礼拝に導かれてきました。礼拝の中で賛美をしています。私たちも、神と心を一つにしています。イエス様が私たちの罪のために十字架にその身をささげるという、大きな愛を実践されました。この事実に感謝をもって、心に深く落とし込み、神を賛美しましょう。 神はいつも、私たちの側におられるからです。 私たちがどんな悲しみ苦しみにあっても、神は必ず、私たちを抱きしめてくださるからです。賛美しましょう。 そして、羊飼いたちがそうしたように、イエス・キリストの証人として、この新しい年に、喜びと賛美のある生活をスタートさせていきましょう。