説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年1月7日(顕現後第1主日)

主イエスの洗礼

マルコによる福音書 1 : 7-11

マルコによる福音書では、イエス誕生の記録は、ありません。昨日、主の顕現を祝ったばかりですが、教会歴で言いますと、一日でいきなり30年ほどの年月が経過したことになります。したがって今日は主イエスの洗礼のできごとを記念してお祝いし、礼拝する日になります。洗礼の元のギリシア語は「バプティスマ」と言います。イエスは「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とありますが、直訳すると「沈められた ヨルダン川のなかに ヨハネから」となります。ヨハネの洗礼も、キリスト教の古代の洗礼も、現在のように、父と子と聖霊の聖名によって、額に水を注ぐのではありませんでした。当時は、全身を水の中に沈めていました。

ヨハネの洗礼の動詞のバプチゾーの意味は、水の中に沈む、浸すという意味があります。そして、死んで、水から上がることによって、新しい命に生きることです。すなわち新生ということになります。洗礼者ヨハネの行う浸礼は、洗うという概念はありませんでした。悔い改めて、罪のうちにある古い自分に死んで、新しい自分に生きることでした。それならば、罪のないイエスがなぜ、悔い改めの洗礼を受けるのでしょうか、という疑問がわきあがります。

イエスと洗礼者ヨハネのやり取りについては、マルコは触れていませんが、マタイ福音書3章14節には、「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから浸礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』イエスはそれにたいして、『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』」とそのいきさつを記しています。

イエスは、我々にふさわしいことですと、悔い改めるすべての人と同じように、「罪のゆるしのための悔い改めの浸礼」を受けられました。神の子でありながら人として、肉の体になられたので、多くの人とすべてのことを共有するためではないでしょうか。

そして、主イエス浸礼の場面ですが、10節からの記述では「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、「霊」が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。とイエスご自身がそれを見たのです。そして「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者』という声が聞こえた。」、これもイエスご自身がお聞きになりました。とマルコは述べています。他の福音書のように証言者になる第三者を登場させていないのがマルコの特徴です。

洗礼については、日本聖公会の教会問答で、「洗礼とは何ですか」という問いに「答え、聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です。」と述べられています。最初期のキリスト教の洗礼は、使徒言行録2章38節によると、「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい.めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。』と記されています。このほかにもイエスの名によって洗礼を受けている箇所があります。パウロがエフェソの教会を訪れたとき、そこにはアポロの伝道によって洗礼を受けた信徒たちがいました。パウロは彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」というと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか聞いたことがありません」と答えました。パウロはさらに「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と問います。すると彼らは「ヨハネの洗礼です。」と答えました。そこでパウロは言いました。ヨハネの洗礼は、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。人々はこれを聞いて、イエスの名による洗礼を受けました。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言したりした。(使徒言行録19:1-7)とあります。彼らは本当のキリスト者になったのです。

「水による洗礼と聖霊による洗礼と対比しています。聖霊による洗礼は内的な見えない経験ということになります。

また、わたしたちは、罪に死にキリストに生きるために洗礼を受けました。「わたしたちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ6:4)

キリスト教では、その後三位一体の教理の確立によって、キリスト教の洗礼は「父と子と聖霊」の名によって授けられるようになり、それによらなければ無効になりました。また、聖公会では「父と子と聖霊の聖名によって」授けられたものであるならば、他教派の洗礼も有効とされています。洗礼は一回でいいのです。

わたしたちは、洗礼を受けても罪を犯します。日常は懺悔の連続です。伝統的な教会の建築では、聖堂の入り口に洗礼盤が設置されています。私たちの岸和田復活教会では、それがありません。洗礼盤は、べストリーに保管されていますが、洗礼盤を聖堂の入り口に設置される根拠は、洗礼盤をみて、信仰の最初の思いに帰ること、日々罪を悔い改めて、新たにされることです。特祷で祈りましたように、「みなによって、洗礼を受けた者が、その約束を守り、み子を主、またまた救い主として、大胆に告白することができますように、世の光、地の塩として、わたしたちは、その輝きを放つのです。さらに、教会のメンバーに迎え入れられた喜びを思い出すことです。それはイエス様が受洗のあと、公生涯に入られたこと、人々に喜びと希望を与えられる生涯に入られました。そのご生涯に倣うならば、特に、貧しい人や虐げられているすべての人の喜びと希望、悲しみと苦しみは、キリストの弟子であるわたしたちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもあるのです。わたしたちキリスト者は日本社会の中で小さな存在ですが、本当に人間の現実に向き合うところから、キリストの光をもたらすものになりたいと願っているのです。だからこの世界を暗闇だとみるのではなく、喜びと希望の日々でありますように、イエス様と共に歩んでまいりたいと思います。わたしたちの教会のこの一年が、本当の意味で、喜びと希望の光を輝かす年になりますように。