説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年1月14日(顕現後第2主日)

フィリポとナタナエル

ヨハネによる福音書 1 章43-51

今日の福音書は、ヨハネによる福音書から選ばれていますが、この個所では、地名と人名が出てきて、話の繋がりは、少しややこしい箇所でございます。

今日、聞いたみ言葉では、フィリポとナタナエルがイエスと出会う話が記されています。

40節で、アンデレとシモン・ペトロに出会った翌日、イエスは、ユダヤからガリラヤ地方へと下って行こうとします。その時、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」(43節)と言われました。フィリポという人は、「アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」(44節)と書かれています。ベトサイダとは、漁師の家という意味があります。ガリラヤ湖畔の北岸の町で、ヨルダン川の東にありました。

一方、イエスはユダヤ人で、元来、ユダヤに属して、そこが彼の故郷であるはずですが、イエスにとっては敵地であります。「自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(1:11)ことが明らかです。ガリラヤはイエスにとって安全な地域でした。イエスは「ナザレの人」(46節)と言われていますように、イエス自身がガリラヤ地方に属するような書き方がされています。旅の途中で、フィリポはイエスに出会い、旧約聖書が記し、預言している救世主と信じて、イエスに従って行くことを決断したのです。

けれども、フィリポはその出会いを、自分だけで終わらせません。彼は、ガリラヤに帰ると、友人であるナタナエルと出会って、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)と証言しています。

「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」という表現は、旧約の証言という意味で用いられています。ユダヤ教側でも正典が制定されていませんでした。神の教え(トーラー)は、律法と預言者という言い方をされていたようです。

ナタナエルとは、「神が与える」という意味で、ガリラヤのカナという町の出身でした。彼の名はここと、21章2節にだけしか出てきません。共観福音書に記された「使徒リスト」にもありません。でも以前からフィリポとは知り合いだったのでしょう。けれども、ナタナエルは、旧約聖書に預言されている救い主と出会った、「よいものを見つけた」と言う、フィリポの言葉を聞いたとき、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)と疑問を投げかけ、否定的な態度を取ります。ナタナエルには、自分なりの聖書に対する思いがあったのでしょう。

それに対してフィリポは、イエスが救い主であることをナタナエルと議論しませんでした。説得しようとはしませんでした。「来て、見なさい」(46節)とフィリポはナタナエルに勧めました。その勧めに、ナタナエルも自分の聖書的見識だけで判断せず、実際に会ってみて、自分の目で確かめてみようという気になります。

私たちも、人に言葉で説明するのは大変です。それよりも、「来て、見なさい」と言えたら、よいのではないでしょうか。

ナタナエルは、フィリポの「来て、みなさい」という誘いに、自分の目で確かめようとして、イエスのところにやって来ます。イエスは、そういうナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(47節)と言われました。ナタナエルについて、イエスは、「あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)と言われました。いちじくは、パレスチナ地方によく生えている樹木です。神の掟である律法のラビはよく、いちじくの木陰で弟子たちを教えました。だからナタナエルは、律法を熱心に学んだ人であったと思われます。

けれども、ものごとを熱心に学んだ人の一般的な傾向として、自分が学んで獲得したものとは違うものをなかなか認めにくいものです。ナタナエルにも最初、そういう傾向を認めることができます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と、フィリポの考えを否定したからです。けれども、ナタナエルは自分の考えにこだわりませんでした。相手の言葉に耳を傾け、謙虚に、自分の目で確かめてみよう、という気持になりました。イエスは、その姿勢を、誠実な求道の態度ではないかと認めて、「この人には偽りがない」と言われたのではないでしょうか。

イスラエルとは、神の民という意味です。そして、神の民の本質とは、律法の中に真実を探し続ける、神を求め続けるところにあります。そういう姿勢で歩み続ける人こそ、「まことのイスラエル人」です。イエスとは真に、そういうお方でした。そして、ご自分と同じ姿勢を、ナタナエルに見出したのでしょう。そういう意味で、信仰生活とは、私たちが、偽りのない「まことのイスラエル人」、神を求め続ける求道者として歩み、自分を造り上げていく生活だと言ってよいでしょう。

「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして さらに言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(51節)

ここでイエスがお語りになられたのは、創世記28章10節以下に記されていますが、のちに、イスラエルと呼ばれたヤコブが、長子の権利を奪ったために兄のエサウを恐れて逃げました。その旅の途中のベエル・シェバというこの土地で、石を枕に休んだところ、天からのはしごを目の当たりにします。天と地が一つのはしごでつながって、天使たちがこのはしごを昇ったり降ったりするのを見たのです。

これはまさに、この場所が、地からの天の入り口であることをヤコブが見たという出来事でした。ここでは、神とイエスの特別な交わりが象徴されています。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。天の御国とこの地上がまさに一つにされるような出来事を見るようになるのだと言われたのでした。 きょうのみ言葉に、「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)、私の心を満たすお方です、と信じて告白し続けることができるのではないでしょうか。大切なものと出会い続けることができるのではないか。そう信じて喜びと希望をもって歩み続けたいと思います。