説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年1月21日(顕現後第3主日)

神の国の到来と弟子たちの召命

マルコによる福音書 1 章14-20

きょうの福音書朗読の箇所は、先週土曜日の「聖書の学び」で用いたテキストをより詳細に学んだ部分と重なります。顕現後第1主日はイエス洗礼の日でした。イエスはヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊に満たされ、神の「愛する子」と宣言されました(マルコ1章9-11節)。そして荒れ野で悪魔の誘惑を退けた(1章12-13節)のち、きょうの箇所から神の子としての活動が始まっていきます。

きょうは、イエスの活動のはじめである神の国の福音と漁師の召命についてご一緒に学んでいきたいと思います。

マルコによる福音書には「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き」と記されています。マルコは洗礼者ヨハネが、ユダヤの荒れ野で活動していた時期とイエスの活動の時期をはっきり区別しようとしているようです。

ここで洗礼者ヨハネの役割は終わり、マルコ福音書での洗礼者ヨハネに関する記述がここで終わります。その後、イエスが神の福音を宣べ伝える活動の場として選んだのは、エルサレムの都から離れたガリラヤでした。そして、その周辺地域に福音宣教の場を拡大していきます。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と第一声を放ちます。原語では、単語順に直訳しますと「満たされた 時は、そして 近づいた 神の国が。悔い改めなさい そして 信じなさい 福音を」となります。

時は満ちるとは、どういう意味でしょうか? 時を表すギリシャ語では、クロノスとカイロスがあります。聖書の記述に「クロノス」という時と「カイロス」の時が使い分けがされています。「一時間、一日、一年」のように、流れ去る時の長さに注目したときには、クロノスが使われています。わたしたちの日常の直線的な時間といえます。一方で、今の「時は満ちた」の時はカイロスを使っています。一定の期間が満ちることですが、「試練の時・実りの時」のように時の節々を満たす出来事に注目するときカイロスが使われているようです。ここでは、カイロスの、「時」の計画の中で定められている終末の救いの「時」として使われています。そのカイロスまでに経過する期間が満ちたということになります。神の国とは、神が王として支配するときが来ているのです。

「近づいた」は、文法的には、完了形になっています。これは「近づいたがまだ来ていない」というのではなく、動作の継続をあらわしています。近づいて既に来ている、ということになります。

神の国は、バシレイアでこれは「王としての支配」「王が治める土地」の意味で用いられています。 当時の、イエスの時代のユダヤ人は、ローマ帝国がユダヤを支配し、その圧政に苦しみ神の国を待ち望んでいますが、神は応答してくれないという状況にありました。そんな中で、ユダヤの人々は、神の国の実現をますます終末論的に考えるようにいたようです。

「時」が満ちた、とイエスは、悔い改めて,福音を、すなわちイエスを信じることを人間に求め続けています。「悔改める」は原語でメタノイアといい、もとの意味は「心を変える」「心を回す」180度向きを変えることです。単なる反省ではありません。この悔い改めは、旧約聖書では出てきませんが、旧約のシューブと同様に全存在をもって神に帰り、神に服従することを意味するとされています。それはきょう聞いた旧約のエレミヤ書3章22節、4章1節を見ていただきますとヘブライ語で「シューブ」、「立ち返れ」という言葉が出てきます。そうすれば、再び迷い出ることはない、と預言されています。旧約では6か所しかこの「立ち返る」は出てこないそうです。従って「立ち返る」同様にメタノイアは、悔い改めて「福音を」を信じること。すなわち神の国の到来に「全存在をかけて神に信頼を置いて、自分自身を神に委ねることです。

イエスはガリラヤ湖畔のほとりをさらに北へ下っていきます、とシモンとその兄弟アンデレが網を打っているのをご覧になった、とあります。イエスは彼らを見たのです。二人は、イエスに見初められたのです。「わたしについてきなさい」という言葉だけで二人は後についていきました。少し北へ進んでいくとゼベダイの子ヤコブとヨハネを見た、のです。原文を直訳しますと、彼らが舟の中で、網を續っているのを、そして、ふたりは、「彼らの父を、雇人と一緒に、舟に捨てて、」イエスの後についていきました。

ルカ福音書は、イエスの言葉を聞き、そのなさった業を見てからイエスに従った、という話を伝えています(ルカ5:1?11)。偉い先生だから従ったという理由付けが成り立ちますが、マルコ福音書では、イエスに見初められ、すぐに弟子になります。イエスによって、選ばれ、召し出されたのでした。あこがれの先生に弟子入りをお願いするのが普通ですが、イエスの方が弟子を選んでいます。

私たちは信仰生活に入るとき、わたしたちの判断で選んだと思うでしょう。確かにそういう側面も否定できませんが、しかし、同時に、それよりも前にイエスの方が「私」を見て、招いてくださっているのです。

神の選びは、優れているから選んでくださったのではありません。

選びの判断は神のみ心にあります。神はすべての人を救うために弱い、普通の人を選ばれたのです。

ペテロとヨハネが復活のイエスについて説教をしていた時のことが、使徒言行録4章13節で「ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人は無学な普通の人であることを知って驚き、」と記されています。主イエスによって捕らえられ、普通の人が聖霊に満たされ変えられていったのです。わたしたちの現在の教会において普通の人が群れの中から召し出され伝道者として立てられます。神様から遠く離れ、逆の道を歩んでいたわたしたちのために、十字架にかかり、神様の方へ、方向転換させてくださったイエス様が、今日も友よ,帰れ、わたしについてきなさいとのべておられます。道を示してくださっています。

既にイエスの時が来ているのです。わたしたちにとって困難な生活の状況に置かれているときにこそ、イエスが共にいてくださいます。

イエス様、助けてください、あなたを仰ぎ見る力を与えてください。

主にある喜びの中を歩むことができますように、力強く、賛美しながら歩むことができますように祈りましょう。