説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年1月28日(顕現後第4主日)

権威ある新しい教え

マルコによる福音書 1 章21-28

これまでのマルコ福音書の流れを大まかに振り返りながら、お話を進めていきたいと思います。

まず、神の福音の使者として、洗礼者ヨハネが遣わされ、罪の赦しのための洗礼を授けていました。ヨハネはわたしの後から来る人が聖霊によって洗礼を授けられる。イエスがナザレから出てきて、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたとき、霊が鳩のように降るのをご自分でご覧になり、「これはわたしの愛する子、という声がしました。そのあと霊に導かれ、サタンによって誘惑を受けましたが天使が仕えていました。その後、ヨハネが捕らえられたので、イエスはガリラヤへ行きました。

「そこで、時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」といわれました。これが宣教の始まりです。イエスは神の国の到来を告げ、だから悔い改めて洗礼を受けなさい。と宣言します。そしてガリラヤ湖のほとりをカファルナウムへ向かう途中に4人の漁師を弟子にしました。最初に出会ったシモン・ペトロとヨハネは人間をとる漁師にしようと召し出しました、次にヤコブとアンデレを召し出しました。二人は網と舟をまた家族を残して、イエスについていきました。彼らはカファルナウムを目指して北へ向かいました。

21節からは、カファルナウムの一日といわれるところに入っていきます。

ガリラヤ湖の北西岸にある町カファルナウムに着きました。安息日会堂の中に入って教え始めました。「安息日」は今で言うと、金曜日の日没から土曜日の日没までにあたります。労働をしないで、礼拝を行うための日でした。エルサレムのユダヤ人は神殿で礼拝しましたが、地方には町ごとに会堂があり、ユダヤ人はそこに集まって礼拝をしていました。

最初のできごとは、安息日に会堂の中で教えることでした。「律法学者のようではなく、権威あるもののように教えていた」から人々は、驚きました。イエスの評判はガリラヤの隅々まで広まりました。それではどんな教えなのでしょうか。「神の国の教え」を徹底しています。先週もありましたように神の国、すなわち神の国の支配について権威あるもののように教えたのです。ここでは神の国を運ぶ、神の権威を示すのです。神の支配するときが既に来ているという教えでした。

汚れた霊に取りつかれた霊とは、神への敵対者です。人々を神から遠ざけているものです。

イエス時代の人々は人間の力をはるかに超えた大きな力を感じたときに、それを「霊」と呼んだのです。その力が神から来るものであれば「聖霊」ということになり、神に反対する悪い力であれば「汚れた霊」ということです。この汚れた霊によって人々の心が分断され、一人一人がバラバラにされます。聖霊が「神と人、また人と人とを結びつける力」だとすれば、汚れた霊は「神と人、また人と人との関係を断ち切る力」であるといえるでしょう。

事実、この箇所で悪霊はイエスとの関係を拒否します。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)は、「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしたちとあなたにどんな関係があるのか」となり、したがって、「ナザレのイエス、我々とあなたとどんな関係があるのか、我々を滅ぼしに来たのか?あなたが誰かは分かっている、神の聖なる者だ」となります。

悪霊は、神から遣わされたイエスとの関係を強く拒否しています。「黙れ」「出ろ、彼から」といって、汚れた霊を叱りつけました。

イエスは悪霊を沈黙させました。神との関係を拒否しているのは、目の前の人の本当の部分ではなく、何かしらその人を神と人から引き離そうとしている力だとすれば、その汚れた霊の力を放置しておかないのです。

汚れた霊は、ナザレのイエスといい、なぜ名前を言うかといえば、当時相手の名前を呼べばその相手を死することができる、といわれていたので悪霊は、イエスの名を口にしたのです。我々を滅ぼしに来たのか。しかし、黙れとしかりつけました。

霊能者による悪霊の追放は、イエスの時代に良く行われていましたので、当時の人にとってイエスの行為もそれらのうちの一つとして見られていたようです。当然のこととして行われていました。汚れた霊に取りつかれた人が叫びます。 黙れ、彼から出ろ、と命じます。彼を引付させて、彼から出たのです。

イエスの言葉どおりの出来事として汚れた霊は出たのです。これはイエスの権威によって出たのです。

イエスは、汚れた霊を叱ることこのほかにも、人間以外のものも叱ります。風や波を叱って、その行動をやめさせました。ペトロのしゅうとめを癒すために熱を叱りました。これは、イエスから出た権威であります。イエスの奇跡は、奇跡そのものが示しているその神の力を見てもらうことを目指して、叱るのです。

イエスのカファルナウムで行われた最初の宣教は、悪魔祓いから始まります。その悪霊払いは、弟子たちにも与えられました。それは、福音宣教と悪魔祓いとは表裏の関係にあります。

神の国の到来を告げるには、汚れた霊は、神との交わりを妨げるものですから、それを追い出します。汚れた霊を追い払い妨害者を退けたとき、すでに神の国は来ているのです。また、神の国の到来を告げる弟子たちにも権能を与えられ、汚れた霊を追い追い払いました。現代のわたしたちにとって、悪霊とはなんでしょうか? わたしたちの周りにも「神と人、人と人との関係を引き裂いていく、目に見えない大きな力」が働いていると感じることはないでしょうか。

神への信頼を見失い、人と人とが支え合って生きるよりも一人一人の人間が孤立し、競争に駆り立てられ、大きなストレスが人に襲いかかり、それが最終的に暴言になったり、暴力となって噴出してしまいます。そんなとき、一人の人間ではどうすることもできない「力」が汚れた霊だと言ってもいいのではないでしょうか?

22節の権威あるものとして教えられたものは、汚れた霊の追放であり、イエスは悪霊を追放することによって、その教えは、権威ある新しい教えであることを示されたのです。そして人々は「権威ある新しい教えだと、言い広めました。イエスの教えは救いの出来事による教えです。救いをもたらそうとする神の力のゆえにイエスの教えは真の権威をもったのです。

イエスの評判はガリラヤの隅々にまで、出ていきました。福音は律法学者の教えのように人を縛る教えではなく、神の支配を思わせるイエスの権威によってもたらされたのです。イエスの教えは神の支配そのものなのです。

福音の宣教と悪霊を追い出すこととは、切り離せないのです。汚れた霊は神との交わりをふさいでしまいます。イエスの宣教活動は、悪霊を追い出すことから始まりました。

「神の国は近づいた」という福音は、イエスが悪霊に苦しめられ、神や人との交わりを喪失していた人を、神や人との交わりに連れ戻すことによって、神の支配は、もうすでに実現し始めたのだと言ってもよいでしょう。何かの現象を「悪霊の仕業だ」と言ったり、誰かのことを「あの人は悪霊に取りつかれている」と非難しても何も問題の解決にはなりません。むしろ、悪霊に覆われてしまっているような現象や人間の、もっと深い部分にどのように触れ、それにはイエスの十字架のみ傷を思いつつ人に寄り添うのです。

どのようにすれば関係性を、つながりを取り戻していくことができるのでしょうか。わたしたち一人一人に問いかけられています。