説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年2月4日(顕現後第5主日)

カファルナウムでの一日

マルコによる福音書 1 章29-39

イエスは安息日に会堂で教え、悪霊に取りつかれていた人を癒しました。今日の箇所はその続きで、同じカファルナウムでの1日の間の出来事です。

それは、神から遣わされたイエスを通しての権威を示すことでもありました。きょうの箇所もイエスが発した言葉が、行為になるという出来事が起こりました。これによって、イエスは与えられた権威を示されました。イエスの教えと行為の結びつきを強調しています。

その癒しの場所は、会堂を出て、シモンとアンデレの家、つまり個人の家に行き病人を癒しました。3番目は、戸口でありますから社会へ出ていく場でもあります。イエスは会堂という宗教の場、家という個人生活の場、社会生活の場へと移動していきました。きょうはイエスと癒された人の働きと召された方をご一緒にみていきましょう。

まず30?31節に、シモンの姑についての話があります。「手をとって起こされる」というイエスの行為は、病気の人に触れて、その人を癒すという行動でした。イエスに触れていただくことは、病人にとっては、その励ましと慰めはいかばかりだったでしょうか。「病気を癒す」ということと「悪霊を追い出す」ことは、イエスの時代には明確に分離されていませんでした。だから悪霊を追い出すことは「人を神から引き離す力、人と人との間を引き裂いている力を追い払うことだと考えれば良いでしょう。当時の人々は「悪霊」という、目に見えない、人間の力を超えた悪の力が、病気を引きおこす、と考えていたからです。ここでは、熱をは去り、と悪霊が去ったことが同じ出来事として考えられたのかも知れません。その人を苦しめている悪の力が追い出され、神につながり、人の繋がりを取り戻すことができたのです。それがイエスの行なっていたことの結果であるといえるでしょう。

シモンの姑は、癒され、癒されたものの姿として、キリスト者の姿が描かれています。癒された人は、仕える人になりました。「仕える」の原文ではディア?コネオーが使われています。ディーコネオーは基本的には、「食事を給仕する」ということです。 ペトロの姑は仕えることによって、癒しが実現したことを示しました。癒されたものの喜びを表しているのです。 癒された後、仕える人にとなったシモンの姑は、イエスの弟子になっていった、とも言えますし、イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった、と言ってもいいでしょう。これが今日のキリスト者の生き方の基本的な姿勢の原型になっているでしょう。ここでは、ただ単に肉体的な癒しだけが問題ではないのです。イエスの癒しを体験することによって、その人の生き方が変わる、ということが大切なのです。「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものをいうことをお許しになりませんでした。

先週の1章24節でも汚れた霊に取りつかれていた人がイエ、に向かって「ナザレのイエスかまわないでくれ、われわれを滅ばしに来たのか、正体は分かっている。「神の聖者だ」といいました。なぜ、悪霊はイエスの正体を知っていたのでしょうか。それは「人間の力をはるかに超えた霊的な力によって」というしかないでしょう。

しかし、イエスが誰であるかを知っていても悪霊は、イエスの係りを拒否するので、悪霊にとってイエスを知っていても救いに至らないのです。わたしたちはイエスが神の子であることは知っています。しかし、知っている、頭で理解していてもそれだけでは何の役にも立たないのです。わたしたちに問われているのは、そのイエスという方とどのような関係をもっているか、どのような関係を築こうとしているのかということです。

「ものをいう」は原文では普通の「話す」という言葉が使われていますが、「悪霊がものをいう」は、イエスが言葉によって権威を示すように「悪霊が力を振るう」ことも同じだといえます。だからイエスは悪霊を黙らせたのです。イエスの宣教活動は「宣教し、悪霊を追い出すというものでした。

イエスの宣教は、先々週の日課の1章14-15節「神の福音」、すなわち「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。振り返りますと、イエスが告げたのは「神の国の到来」でした。神の国の到来は、神の支配がはじまっているということです。イエスの周りに集まった人々は、悪霊にとりつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのをみて、確かにここに神の国が始まっている、と感じたことでしょう。

35節のイエスの祈りはどのようなものだったのでしょうか。

イエスは何を祈っていたのでしょうか。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後でイエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。

これはイエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。人間的な見方をすれば、イエスの活動はカファルナウムでは、成功しています。悪霊の力は打ち破られ、病人は立ち上がり、イエスは多くの人から賞賛を受けました。カファルナウムにとどまることに何の問題もありませんでした。むしろいごこちがよかったはずです。イエスは祈りの中で、人間の思いとは違う「神の御心」を見いだしました。イエスは「近くのほかの町や村へ行こう」という命令は、マルコ16章15節で「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とわたしたちにミッションを与えられています。主イエスが離れたところへよく出かけられました。それは神の声を聴くためだったのでしょう。このミッションは一般社会のなかでも良くつかわれます。会社のトップも、社会における企業の働きかけを「わが社のミッション」とはなにか、という方針を打ち出し社員を導いていきます。

わたしたちクリスチャンのミッションは、主イエスが遺言のように示されました。

しかし、今、この社会で一人一人にどんなミッションを与えられているか、一人一人が心を静め、沈黙の中に語り掛けてくる神の言葉を受け取るしかないのです。

忙しい日々の中で少しの時間をテレビから離れ、沈黙の時をもち、祈り、イエスの声を聴き、み言葉を受け取り、生かされたいものです。

主イエスが祈るために寂しい離れたところへ、よく出かけられました。それは神の声を聴くためでした。

わたしたちも祈りの中で一人ひとりが、神のミッションを受け取りましょう。

神の宣教の中に生きる人生をおくることができますように。