説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年2月11日(大斎節前日)

変容貌

マルコによる福音書 9 章 2 節 - 9 節

きょう読まれた福音書は、ご承知のように変容貌といわれている箇所です。

2節 - 9節はペトロの告白と最初の受難予告から6日ののちにイエスは3人の弟子を連れて行き高い山に登った。高い山の上での変容貌と9節には「山から下りる時」とありますから下山途中のイエスの言葉までの一連の出来事を伝えています。

この物語の中心は7節における神の声であります。イエスの変容やモーセとエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天上的存在であることを示しています。9節では山から下りたという、平地との対比で描かれています。

8章31節から9章1節まで、イエスの最初の死と復活の予告を行ないました。9章1節には、「神の国が力にあふれれて現われるのを見るまでは、決して死なない者がいる」とあり、イエスの変容が続いていきます。イエスの変容は神の国の最終的な到来の予告でもあります。

山に登った山、というのは伝承によればタボル山でナザレの南東数キロの地点にあります。このほかにもフィリポ・カイサリヤのヘルモン山という説もありますが、標高が2,815メートルもあり定かではありません。ただ8章27節の記述からフィリポ・カイサリヤ周辺の山と考えられます。

山に登る前に、平地では、イエスの受難が予告されていました。マタイ16章で受難と復活を予告すると、そんなことがあってはなりません。メシアが死ぬことがあってはならないこと。それは弟子たちが思い描いていたメシア像とは全く違うメシア像であります。受難へと向かうイエスに戸惑い、叱りつける弟子たちでした。イエスはいう神のことを思わず人間のことを思っているのは、平地のことであり、この世は人間のことを思うところです。メシアが死ぬ、ということを想像できない弟子たちは聞いて戸惑い、悲しみに暮れます。イエスはそのような弟子たちを「高い山に連れて登りました。山は日常から離れ、神との深いかかわりに入る場所です。弟子たちは平地にとどまり続けるならば、人の思いを超えることができません。それならば、メシアの死はいつまでも謎のままであります。山に導き、神の声を聴くことが弟子たちにとって、どうしても必要なことだったのです。イエスは彼らの前で姿が変えられたのです。動詞の「変えられた」は受動形ですが、行為の主体が神であることを婉曲的に示す受動形になっています。だからイエスの姿を変えたのは神であるとされるのです。イエスの変容は弟子たちのために神が起こした出来事であります。イエスの姿は地上のさらし屋が白くできないほどに」輝きます。「地上」のと、断ったのは、この白さが天上の輝きから発出していることを示すためです。

さらにエリヤはモーセと共に現われ、イエスと話しますが、内容について触れていません。ここでは、現れたこと自体に意味があるからです。イエスの姿が変えられ、エリヤとモーセが登場することによって、天の介入が強調されているのです。

仮小屋を三つ建てようという、ペトロの提案はとっさの思い付きの提案であります。この栄光を見たペトロはこの光景をとどめておきたいという、願望を持ちました。弟子たちは恐れました。ペトロは何を答えるか知らなかったので恐れました。栄光に輝くイエスを見て恐れました。イエスの変容やモーセとエリヤとの語り合いは、イエスが超地上的・天上的な出来事なので、弟子たちは、戸惑ってしまいました。雲が現れ、彼らを覆いました。すると、雲の中から、声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、これに聞け。」という声でした。

イエスは命じました。今、見たことを誰にも語らないように彼らに命じたのです。それはいつまでか、人の子が栄光を受けるときまでです。山から平地におりたとき、すなわち日常の生活に戻り、イエスの受難を語ることなしに栄光を語るなら誤解を招くからです。なぜ誤解を招くのでしょうか、人は、誰でも苦難は嫌です。楽しいことだけで日々を送りたいものです。

しかしイエスは、悪魔の誘惑を受け、40日40夜断食し、悪魔からの試練を経験しました。この経験を通して、信仰がより固いものになりました。人は、苦難の経験を通して、信仰が強くされるのです。

人はそこから逃れようとします。主イエスにとって、受難の十字架の上が栄光でした。十字架で栄光を現すことの意味がここにあるのです。受難、を得てからでないと主イエスの栄光が分からないからイエスは「誰にも言ってはならない」と沈黙命令を出したのです。苦難なしで栄光があると、誤解をしないように,沈黙命令を出されたのです。
イエスの変容をもう一度振り返りますと、山に連れていくのは、神の栄光を見せるためであり、そのためには受難があることを悟らせるためであります。モーセとエリヤと語る姿は、天上の姿であり、ペトロはこの地上に留めておきたいという思い付きを提案します。的外れの提案であります。これは恐れていたからだとマルコ福音書が伝えています。気が付くとイエスだけがいた。モーセとエリヤを対等にみているという誤解がありました。これはイエスを貶めていることになります。モーセやエリヤだけでなく、イエスに聞き従う、イエスのみが十字架の道を歩むように求めています。十字架の道こそは栄光への道であるのです。

受難の道を歩むイエスと共に歩む、十字架の道こそが栄光への道であります。人は人の力によって変わるのではなく、神によって変えられるのです。

キリスト者が信仰によって、復活した主の栄光を知り、絶えず変容させられることであり、主を知ることによって、主を知った者自身が変わる。すなわち、キリスト者は、主の栄光を知って、イエス・キリストの姿に似た者となり、それをはっきりとわきまえるようになるのです。このように人生を歩みたいものです。