説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年2月18日(大斎節第1主日)

大斎節

マルコによる福音書 1 : 7-11

大斎節は復活祭の準備の期節です。復活祭までの日曜日を除く40日間が断食の期間とされたので、大斎始日が、灰で額に十字を記すということで、灰の水曜日と呼ばれ、これが大斎節の始まりの日になりました。

きょう読まれた福音書の箇所は2つの部分からなっています。イエスの洗礼の場面(9節-11節)とイエスの活動開始に先立つ荒れ野での誘惑(12節-13節)の部分です。

大斎節第1主日には40日の荒れ野の誘惑の場面が、マタイやルカは誘惑の内容を伝えますがマルコはもっと簡潔に描かれています。

どうして額に灰の十字のしるしをするのでしょうか。灰の水曜日の式文には、「あなたはちりであるから、ちりに帰らなければならないことを覚えなさい」と記されています。これは、「エデンの園の木の果実」を取って食べたアダムとエバに言われた神様のみ言葉です。アダムとエバが「エデンの木の果実」を取って食べたことは蛇の誘惑のせいでした。しかしこの蛇の誘惑は人間の欲望を引き出しています。

すなわち、人間が自分の欲望を満たすために神様のみ言葉に背いたのです。エデンの園から追い出されたことも、自分の欲望を満たすために、エデンの園で生きて行くことができなくなったのです。現代の格差社会の問題も結局この欲望の問題です。エデンの園の出来事が、今日も続いている出来事です。ですから私たちは、アダムとエバを責められた神様のみ言葉を通して、私たちの犯した過ちを省みる期間でもあるのです。

イエスがエルサレム入場の時、イスラエルの民が棕櫚を振って、熱烈に歓迎しました。その時は人々が喜んでイエス様を迎えいれました。しかしすぐ心変わりし、態度が変わってしまい、イエスを十字架につけよと叫びました。それに比べると、今日の私たちはどのような姿で生きているのでしょうか。大斎節は、イエス様が荒野で四十日間、断食しながらお祈りをなさったことを憶えます。

けれども、「イエス様はなぜ荒野にいかれて、なぜ断食をなさったのでしょうか。荒野は、水もなくて食べ物もありません。昼には暑くて、夜には寒いです。イエス様はそういうところで人間としての限界を感じられたことでしょう。そして「人間は、ちりであるから、ちりに帰らなければならない」ということを悟ったでしょう。平凡な淡々といた日常生活を続けるだけでは、このような悟りを得ることは難しいでしょう。 そうだとすれば、私たちもこのような悟りのために、荒野に行かなければならないのでしょうか。もちろんそのようなことができれば、それが一番良いでしょう。

それで初代教会は日常生活を続けながら荒野を体験することができる方法を用意しました。それがまさに断食と節制、お祈りと善い行いです。

善行を行なうのは、貧しい人への施しを指します。祈るときは、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」なさいです。ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を挙げ、人前で祈っていました。ひざまずいたり、地面にひれ伏したりして祈ることもあり、人に見られるために祈るのは間違っていると、イエスは言いました。断食をする時、ご自分の都合によって選んで実践してください。

無理しないで、他人を意識しないでください。断食と善い行いとお祈りを形式的にするとか、他人に見せるためにはするなと記されています。信仰者の人生は他人に見せるためではありません。信仰者の人生は、「真理の言葉、神の力によって」生きて行く人生です。このように節制の中で大斎節を過ごしましょう。