説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年2月25日(大斎節第2主日)

イエスは何者か、最初の受難予告

マルコによる福音書 8 : 31-38

今日の福音の箇所は少し前の27節から始まっています。

読んでみますと、イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村からお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だといっているのか」28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』といっています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』という人もいます。(28節) そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(29節) するとイエスは、ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。(30節)、とあります。

これはペトロの信仰告白といわれているところですが、道で、弟子たちに質問されたことが中心テーマになっています。

ここでの信仰告白の内実はといえば、イエスの質問は、イエスとは何ものか、といえばメシアですと答えるペトロのメシア観は、当時のユダヤ民衆のメシア観とそんなに差異はありません。当時の民衆にとっては「洗礼者ヨハネとか、エリヤだとかと同じようにメシアに先立って登場する終末的な人物にほかなりません。

だからイエスは自分のことを口外しないように強く口止めされたのです。イエスはメシアであるのは、人々が期待したような地上的な勝利者ではなく、十字架にかかるメシアであるということをペトロもまだ理解していなっかったのです。イエスは誤解を避けるために口外しないようにと命じました。

だからイエスは、この溝を埋めるために受難を予告して、自分の負うべき十字架を示します。8章の31節は、いわゆるイエスの最初の受難予告です。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。(31節) しかも、そのことをはっきりとお話しになった。(32節a) すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」(32節b) と記されています。

イエスは人の子は苦しみ、拒絶され、殺されたのちに、甦ることを隠すことなく率直に語り掛けますが、イエスの歩む道は、神の定めによるものであることを理解できないでいるペトロは、イエスをわきへ連れて行き、原語でいうと、エピティーマオーし始めました。叱り始めました。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』(33節) イエスもまた、「サタンよ、さがれ」と、エピティーマオーしました。叱りつけたのです。ここでは同じエピティーマオーという動詞を使って、イエスとペトロを対立させて描かれています。これは交わることのない対立です。当時のユダヤ民衆と同じように、メシアを地上の勝利者と思い込んでいるペトロは、イエスの前に立ちはだかり、十字架の道を阻止しようとします。そのようなペトロは神のことではなく人間のことを考えるサタンなのです。

それでイエスはわたしの後ろに立ち去れと命じたのです。弟子たちとペトロは後ろにさがりなさい。後ろに下がるということは、十字架の道を歩むイエスに従うということです。イエスは、メシアでもそれは、民衆の描く、勝利者ではなくこの世的には、敗北者です。今日的な言い方をすれば負け組であるイエスは、十字架にあがるメシアなのです。そのことをペテロは理解していないのです。

それから、イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(34節)自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(35節)

弟子というものは、イエスの後に従うのです。自分を空しくして、自分を否定して従うのは十字架を運ぶ、十字架を担いでいく、ということです。自分の望みを捨て、イエスが示す十字架への歩みに従うのです。従うことは、自分を否定して後についていくことです。甦ったイエスに従うようにと命じられました。

マルコによる福音書1章のペトロとアンデレの二人は網を捨てて従いました。2章14節のアルファイの子レビを弟子にしました。従いなさいとは、弟子になりなさいということです。イエスは弟子になりなさいという時、イエスがまず見つけて、近づいていかれます。そして、声を掛けます。イエスは積極的に行動を起こされるのです。

わたしたちにとって、福音は自分の努力からくるものではありません。イエスから来るものです。だから己を空しくして、イエスにわたしを明け渡すのです。イエスにすべてを委ねて、楽になりましょう。力む必要はないのです。福音は救いへの招きなのです。

民衆のために、イエスが十字架で自分を犠牲にして、永遠の命が与えられました。その永遠の命を犠牲にするなら何の益になるのかと重要なメッセージを語られます。どんな代価を支払ってもその永遠の命を取り返すことができないのです。38節の「神に背いた罪深いこの時代の中で、その価値観に従って、生きる者をイエスは恥じる、と警告します。イエスを恥じる者とは、イエスから離れ去る者のことであります。パウロは福音を恥としない(ロマ1章16節)と力強く宣言します。福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。パウロが「恥ずかしいと思う」と考えるのは、罪に仕えて死に至ることであります。弱い、みすぼらしいと思われる人を兄弟姉妹とすることも恥としないのです。イエスは受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と、マルコは記しています。(14章50節) 受難予告を理解できず、最後までついて行けませんでした。マルコは、わたしたちも彼らと同じ過ちを犯す危険があると警告しているのです。弟子たちは実際にイエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。わたしたちは、イエスの歩まれた道を知っています。そんなイエスは今日も大きく両手を広げて、来なさいと私たちを招いてくださっています。