説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年3月4日(大斎節第3主日)

イエスの死と復活

ヨハネによる福音書2 : 13-22

大斎節第3〜5主日に読まれる福音書は年によって雰囲気がかなり違います。今年はイエスの「死と復活」を直接テーマとする箇所が選ばれています。そういう意味で、今日の箇所の中心テーマは「三日で建て直される神殿」すなわち「死んで三日目に復活するイエスの体」について語られています。

マルコ・マタイ・ルカの共観福音書によれば、イエスはずっとガリラヤ地方で活動していて、生涯の終わりに1度だけエルサレムの都に上り、そこで殺されたということになっています。しかし、ヨハネ福音書ではイエスは何度もガリラヤとエルサレムを行き来しています。「過越祭」の季節にエルサレムに行くのは、ごく自然なことですが、この箇所でわざわざ「過越祭」について記されていますのは、イエスの「死と復活」を暗示するためかもしれません。イエスが殺されたのは過越祭の時でしたし、イエスは死から命へと過ぎ越す新しい「過越」そのものといえます。イスラエルは出エジプトの出来事を記念して過越しを守ってきました。出エジプト記12章に記されています。

今日は記念日で考えますと、代祷で祈ります。3・1聖公会生野センターがあります。なぜ、3・1なのかについて見ていきましょう。

日課に戻りますと、  神殿の境内地で売買されているのは、牛や羊や鳩は神殿で生け贄としてささげられる動物でした。また、当時流通していたギリシアのドラクメやローマの皇帝の肖像画刻まれていたローマのデナリオン貨幣は神殿への献金には使えなかったので、イスラエルの伝統的な貨幣であるシュケルに交換してもらう必要がありました。境内地で店が並んでいたようです。日本の寺社の参道の店を想起させます。

だからこれらの商売は神殿にとって必要なものだったのです。 ヨハネが伝えるイエスの言葉「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)という言葉の背景には、ゼカリヤ書にある「その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる」(14章21節)という言葉があります。なぜ、その日には神殿から商人の姿がなくなるのでしょうか。その日には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれる生け贄の儀式は不要になる、だから生け贄の動物を売る商人もいなくなるということです。

神殿が商売の家でなくなるためには生け贄をささげる羊や牛をもはや必要としない状態が来なければなりません。イエスは自ら生け贄の羊として死ぬことによって、生け贄の動物を不要にしたのです。過越祭で起こった出来事として描くことによって、イエスはすべての生け贄に代わりました。

ヨハネ福音書では、神殿そのものが過去のものになっていて、イエスと共に新しい時代が始まっている、ということを全面に出しています。

つまり日々の生活の中に神との出会いがある。という預言だと考えられます。これがイエスによって始まった新しい時代のあり方です。

わたしたちの日々の生活の中でそれを感じることができるでしょうか。そこでイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ書56章7節の言葉を引用しています。

エルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されるのは、イエスの死から40年ほど後の紀元70年のことですが、ヨハネ福音書が書かれたときから見れば、約30年ほど前の出来事でした。ヨハネ福音書の著者は神殿崩壊の出来事を知っていたのです。

弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編69編10節の言葉を思い出しました。この食い尽くすとは十字架に死ぬことを表しています。これは「あなたの家に対する熱心さでわたしを滅ぼすことです」というのです。

ヨハネ福音書は、イエスが登場したとき、もうすでに石造りの神殿の時代は終わったと見ているのかも知れません。ヨハネ福音書は、奇跡は単なる不思議な出来事ではなく、イエスとはどういう方かを表す「しるし」なのです。

しかし、イエスはただ単に奇跡に驚いてイエスを信じる態度は魔術的なものとして否定されています。三日で建て直される神殿とは、「死んで三日目に起こされるイエスの体」のことです。64年もかかった神殿建築を3日で起こすというのです。これは明らかに彼らの勘違いです。この神殿を建てるのに使っている単語は、原語のオイコメセーですが、イエスが起こすに使っている原語は、エゲイローで起こすという意味です。ここでのしるしは「イエスの死とエゲイロー、すなわち起こす、復活する」です。

この出来事によって、イエスとはどういう方か明らかにされているのです。まさにイエスご自身の体が教会なのです。神殿の本来の意味は「神がそこにおられ、人が神と出会うところ」です。死んで復活したイエスという方によって、神は人と共におられ、人は神に出会うことができる。という新しい時代を開かれました。イエス様は訪れるであろう十字架の自らの痛みを抱えつつ、自らの体を切り裂きつつユダヤ民衆だけでなく、すべての人の神殿として3日目に起き上がられたのです。

まとめてみますと、イエスが神殿から商人を追い出しますのは、神殿に対する熱意というよりは、17節に書かれていますように、神への熱意からです。神殿は神の住まいでありますが、簡単に人間の欲望の住まいに代わりうるものです。キリストの教会も同様であります。人間の欲望によって、サタンの住むところに代わってしまいます。

しかし、イエスは、そのような「神殿を立て直すために、十字架に上って、生け贄の小羊となりました。わたしたちはイエスさまに十字架の苦しみを背負っていただきます。  救いを成就される方は、人を救おうとする意志を揺らぐことなく持ち続ける神と、それに参与して死に至るまで従順に歩むイエスとからもたらされました。

人を救おうとする強い意志で導いてくださる方に、悲しいこと、嬉しいこと、すべてを委ねて、イエスに従っていく歩みでありたいと思います。