説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年3月11日(大斎節第4主日)

5000人で分かち合う

ヨハネによる福音書 6 : 4-15

今日は、東日本大震災が起きてから丁度7年目になる日です。まず、これを覚えて祈りましょう。

どうか被災地にある人、避難生活を余儀なくされている人、とくに日本社会の中で生きることの困難に苦しむ人々をお支えください。これらの人々に神様の慰めが与えられますように。また、大震災によってこの世を去った人々に神様が魂の平安を与えてくださいますように、主イエス・キリストの名によって、お祈りいたします。

今日読まれた旧約聖書では、イスラエルの民は歴史的な経験を通して学んだことがあります。それは「主の意思に逆らったからだ」ということです。旧約聖書にはこのように記されています。「祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。」(歴代誌下36:14) また彼らは、遣わされた神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄しました。その結果、イスラエルが滅び、その民は捕囚の生活を余儀なくされました。

後に、イスラエルの民は捕囚の生活から解放されてイスラエルに戻っていくことができました。このできごとをペルシアの王キュロスの勅令を通して次のように記しています。「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」(歴代誌下36:23)

彼らは自分たちの人生の中にいつも共におられる主の助けを実感していました。このような恵みを得ることができたのは、彼らの信仰でした。イスラエルの人は神様が自分たちを導いてくださるということを信じました。彼らは神様が共におられ、神の導きを信じ、神の御心を訪ね求める生き方を学んだのです。

現代を生きて行く私たちもこのようなイスラエルの民の人生とあまり差異はありません。私たちも信仰の純粋さを守らずに、罪に至るようなことをしている場合が多いからです。

具体的に、神様のみ言葉を伝える人々の警告を無視したりします。しかし私たちが忘れてはいけないことがあります。エフェソ書にこのように記されています。「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」(エフェ2:10)

この間、イエスのなされたしるしによって、イエス様の人気が高まり、群衆がイエスについてくるというより、群がるというイメージでしょうか。イエスがティベリアに移動したときに、群衆がついてきたときの話です。今日ご一緒に聞いたヨハネ福音書には、イエスのしるしを通して、善い業と救いの恵み、そして分かち合うことについて読み取ることができます。山に登り、先週と同じ過ぎ越しの祭りが近づいた日の出来事でした。それは、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人も越える人々を食べさせた共食の話です。

この奇蹟は、主が共にいらっしゃったら、私たちの人生は豊かになって、恵みが満ち溢れるようになるという福音でもあります。

今日この奇蹟のできごとの中に出る少年と訳されていますが、青年とも訳せます。だから年齢に関しては、結構分別のできる年齢ではないかと、思われます。この少年が善い行いを示しました。その場所には男だけでも五千人を超える人々がいましたが、イエス様にパンと魚を差しだしたのは、この少年だけでした。「だけ」と申し上げましたのは、その場所にいた5000人以上の人が誰も差し出すことを考えませんでした。

皆自分の食べる分だけを確保すればよいと思っていたのでしょう。しかし、この少年は自分の持っているものを分かち合おうとしました。五つのパンと二匹の魚は、この少年が持っていたすべてのものです。それをアンデレが見つけて取り次いだのかも知れませんが、少年は、持っているものすべてを分かち合おうとしました。すると、ふた切れの大麦のパンが増えたのです。その結果はどうなったのでしょうか。皆がお腹いっぱいに食べることができました。

けれども、もしこの少年が持っていたパンと魚がなかったら、イエス様がどのように奇蹟を行うことができたでしょうか。もしかしたらそのような奇蹟ができなかったかも知れません。というのは、最初の奇跡であるカナの婚宴のとき、水がぶどう酒に変えられました。ですからこの少年の善い行為が恵みになったとも言えるでしょう。この少年を通して私たちは、この世の人々は、小さなパイを分かち合う時、さらに豊かに恵まれるということも知ることができるでしょう。

自分の持っているもの、知恵も知識も、そして物を分かち合って世界を豊かにすることができるのです。それがまさに主が私たちに教えてくださる。「自分を愛するように、あなた方の隣人を愛しなさい」という、新しい掟の実践であります。

でも、人々に与えたから貧しくなると不安を抱く人もいるかも知れません。しかし、主はそういう私たちのために12の篭のパンと魚を残しておかれました。

その12の篭はわたしたちが、困ったとき、取っておかれるのです。落穂ひろいのように困っている人々に与えるためなのです。 エフェソ書にはこのように記されています。「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」(エフェ2:7)

イエス様が私たちのそばを立ち去られたら、私たちの人生はどうなるでしょうか。それは意味のない人生になります。主がおられない人生は罪の奴隷のような、欲望と権力のようなものに捕らわれた生活になるでしょう。

ですから私たちは主が喜ばれることをしなければなりません。まさに自分の物を分かち合った少年の心をもって分かち合いを実践しながら生きて行くことです。それがまことのキリスト者の信仰生活でしょう。もちろん全面的に分かち合いの人生を生きて行くことは難しいでしょう。しかし少しずつ少しずつ実践すれば、私たちも知らずに主が私たちに大きな恵みを与えてくださることを感じるようになるでしょう。

それなら果して善い業はどんなことであり、救いの恵みはどのように現われるでしょうか。分かち合いは大斎克己ができた献金を必要としている人々と分かち合うことです。

この一週間、私たちが「善い業のためにキリスト・イエスを通して造られたものだ」ということを悟って、分かち合いを実践して神様の豊かな恵みを受けられますように心よりお祈りいたします。