説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年3月18日(大斎節第5主日)

人の子は上げられる

ヨハネによる福音書 12 : 20-33

大斎節第3、第4主日は、ヨハネによる福音書を読んできましたが、きょうの箇所は、さらに直接的にイエスの受難と結びつく箇所です。大斎節・復活節の根本的なテーマは、イエスの死と復活です。

20節の「祭りのとき」は「過越祭の期間」です。祭りの時にエルサレムにのぼってきた人の中の「ギリシア人」はギリシア語を話す異邦人のことを指します。

異邦人の中にもユダヤ教に尊敬と信頼を置き神を畏れる者と呼ばれる人もいたようです。彼らは、割礼を受けていないまでも、ユダヤ教を信奉し、礼拝や聖書を読むこと、律法を尊び、ユダヤ教の暦を重視し、これを守っていた人々と思われています。

先週、列王記下で読みました捕囚期以後、ユダヤ人は世界に離散していきました。この離散をディアスポラといいますが、彼らは選民意識が強く、また同族意識も強く、反感も買っていましたが、一方でユダヤ人たちは律法を守るという宗教熱心さと高い倫理性のゆえに周辺の地域に文化的衝撃を与え、尊敬を勝ち取っていたことが事実です。このイエス様の時代には一夫一妻制が確立されていたのです。このことは、周辺の多くの人の憧憬と羨望の的でした。特にローマの上流階級の女性たちがユダヤ教に心惹かれていたことが歴史上よく知られています。これらのことでキリスト教が愛の宗教と呼ばれることの下地になっています。ディアスポラのユダヤ人たちの高い倫理性が伺うことができます。

さて、訪れたギリシャ人たちが、イエスに会うためにガリラヤのベトサイダ出身の弟子であるフィリポに仲立ちを頼んでいます。なぜかこのことを直接イエスに伝えず、アンデレに話し、二人一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。特に、フィリポはナタナエルをイエスに出会わせるときにも仲立ちになっています。こういう人たちによって異邦人の中にもキリスト教の福音が伝わっていったということが分かります。

イエスは、それまでは「わたしの時はまだ来ていない」と言っていましたが、彼らに会ったときここで初めて、「人の子は栄光を受けるときが来た。」と宣言しました。十字架と復活の時がきたのです。栄光という言葉は、神に属する言葉ですから終末の時に神が神であられることが分かり、神のみが栄光に満ちているというところからきています。イエスもまたご自身の姿も、はっきり何者であるか分かるのです。

「一粒の麦地に落ちて死ななければ一つのままである。だが、死ねば豊かに、多くの実を結ぶ。」これは農耕生活を営み、特に小麦の栽培をしていたパレスチナ地方ではこの譬えは、生活と結びついて分かりやすいものでしょう。

「一粒の麦」のイメージは大切です。一粒の種のことを私たちはどのように思い浮かべるでしょうか。現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。種の死とは、枯れてしまうことです。しかし、麦粒は麦粒であることを守ろうとすれば、1つの麦粒のままです。つまり自分の命を愛する者が、それを失うが、この世で自分の命を憎むものがそれを保つことができるのです。麦粒が麦粒であることを自分で壊し、養分や水分を受け入れるのです。光を受け、他のものとつながってこそ、豊かな命が育っていきます。ここでは、十字架について死ぬことにより多くの人たちが永遠の命が与えられ生かされるということを象徴されています。イエスの命はまさにそのような命でした。自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、神とのつながり、人とのつながりに生きようとした命だったのです。

27節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と煩悶します。それはマルコ14章35-36節のゲツセマネの祈りを思わせる言葉ですが、ヨハネ福音書では「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と続きます。「この時」は「栄光を受ける時」であり、「この世が裁かれる時」「地上から上げられるとき」でもあります。イエスの十字架の時は、イエスが神とはどういう方であるかを現し、神がイエスとはどういう方であるかを現す栄光の時なのです。

「神が愛である」ことを完全に現す時なので、この世のもの、すなわち神に敵対する勢力に対して決定的な勝利が現れる時でもあるのです。それが十字架の栄光です。

28節で「父よ、聖名の栄光を現わしてください」と祈ります。イエスご自身も積極的な決断を迫られています。マルコ福音書では、「わたしの思いではなく、あなたの御心になりますように」という祈りに比べると、この祈りは、ヨハネ的な決断といえるでしょう。そして、祈りの中で、天からの声が聞こえました。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう」。「栄光を現わす」ということは、神が神であることを示すことです。

イエスのこれまでの生涯において、イエスの業を通して、神の栄光が既に明らかにされてきました。

しかし、群衆はこの天の声が神の声であることが分かりませんでした。神の声とは全く思いもよらなかったのです。「雷がなった」、といいました。しかし、他の人は「天使がこの人に話しかけたのだ」、といってイエスと神との関係を認めています。

唯一神信仰であるユダヤ教においても、捕囚期以後、一世紀のこの時代には、ユダヤ教の中にも天使礼拝が行われ、天使を神ご自身と置き換えても差し支えないようです。神の力、聖霊を擬人化したものといえるでしょう。イエスは既に神を信じ、またその栄光が現わされることを信じていますので、イエスのために天からの声が聞こえたのではなく、まだ、イエスが天から来たものであることが分からない人たちのために「栄光を現わす」と言われたのです。

32節にある「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という言葉につながるかもしれません。なお、「上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」の意味があります。

弟子たちは驚き、戸惑っていますが、イエスのことが異邦人にも知られ、異邦人にも救いがもたらされることをヨハネ福音書は伝えています。