説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年3月25日(復活前主日)

イエスの尋問からイエスの最期へ

マルコによる福音書 15 : 1-39

教会の暦では、今週から聖週に入ります。さらに聖木曜日の洗足日・主の晩さんの夕べ礼拝から復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、イエスの「受難・死から復活」という「過越」をおぼえます。キリスト教にとって、最も大切な期節です。毎年、この中日の聖金曜日には、ヨハネ福音書19章の受難朗読が行われます。わたしたちは正午から十字架の道行きによって、イエスのご受難を辿りながら苦難の追体験をします。

また、復活日前の主日、本日ですがイエスの受難を記念します。今年はB年ですのでマルコによる福音書14章1節〜15章47節を省略なしで読むこともできます。なお、この日の礼拝で棕櫚の十字架の祝福をして、エルサレム入城を記念しました。

今日は、エルサレムでの主の十字架上での出来事を振り返ってみたいと思います。

きょうの福音書の箇所は、ローマ総督ピラトのもとでの裁判の場面から始まり、十字架の死に至るまで、特にここに登場する人物についてもご一緒にみていきたいと思います。裁判における罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。

ユダヤは当時、ローマ帝国の直轄領になっていました。紀元26〜36年、ユダヤ、サマリアなどの地方を五代目のローマ総督として治めたのがピラトです。彼はローマの古いポンティオ家の出身でしたが気弱で決断を下すことに戸惑いましたが群衆の声に押されて判決を下しました。彼は、就任以来、ユダヤ人の激怒を買うような政策をとってきました。例えば、偶像を嫌うユダヤ人たちにわざわざ皇帝の肖像の付いた旗を掲げさせて、エルサレムに入城させました。ユダヤ民衆はピラトに完全に抑え込まれていました。この当時社会は反権力闘争を行なう人たちがいました。熱心党と呼ばれるグループもありました。既にバラバという政治犯も投獄されていました。ユダヤ人には王はいないので、誰かが「ユダヤ人の王」を名乗れば、それは、ローマの支配に対する反逆者ということになります。

祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだったので、祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました」(15章10-11節)。マルコ福音書によれば群集はいつもイエスに好意的でした。それは逆に、イエスのこれまでの活動が当時祭司長や律法学者たちは、危険人物であると烙印を押しました。その結果、イエスは死に追いやられることになりました。

そこで裁判の尋問です。訴えられた罪状に対する問いですが、「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに対するイエスの答えは「それは、あなたが言っていることです」と切り返し、弁明はしませんでした。きょうの長い箇所の中で、イエスはたった2回しか話していません。ピラトへの言葉以外にイエスが声を発するのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(34節)だけです。この絶望の叫びのように聞こえる言葉です。

これは、今日一緒に唱えました詩編22編の一節の言葉です。この受難物語の背景には詩編22編があることを知ることができます。十字架のイエスをののしった人々の言葉は、詩編22編8節「彼は主を頼みとした。神が救にくればよい。神が彼に心をかけているなら、救いだせばよい。」を連想させます。また「その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」は、詩編22編18-19節の引用と言えるでしょう。

イエスは最終的にローマ帝国に対する反逆者として十字架刑に処せられました。十字架上の犯罪者からもののしられ、群衆からは「神殿を打ち壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と嘲笑されました。大斎節第3主日のヨハネ福音書で出てきた箇所です。イエスは三日でエレロー、起こす、といったのです。46年かかって建てるはオイコドメオーが使われています。群衆は起こす、甦るではなく、「建てると者」といってののしったのです。余談ですが、岩波訳では、「イエスは三日で起こしてみよう」と訳されています。建てると言っていないのです。

祭りのたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していました。慣例に従って欲しいと群衆が集まってきました。祭司長たちが、その群衆を扇動して、暴動で殺人を犯したバラバを釈放するように要求しました。ピラトは群衆にお前たちがユダヤ人の王といっている者をどうして欲しいのか民衆に尋ねました。「十字架に付けろ」ピラトは彼がどんな悪事を働いたのか、群衆に尋ねました。十字架に付けろ、と叫びましたので、この声に押されて、罪の認められないイエスではなく、バラバを釈放しました。

このマルコ福音書の受難物語では、3人の人が象徴的な役割を果たしているようです。暴力革命家の政治犯「バラバ」。イエスはある意味で彼の身代わりになって死にました。バラバは、イエスの死によって救われたすべての人の象徴ではないでしょうか。もう1人は通りすがりの「シモンというキレネ人」がいます。彼はイエスの代わりに十字架を担ぎました。これは「自分の十字架を背負って」(マルコ8章34節)イエスに従う弟子の象徴ではないでしょうか。さらに「百人隊長」はイエスの死を見て、「本当にこの人は神の子であった」と信仰告白するキリスト信者の象徴だと言えるでしょう。この3人の姿は、わたしたちを十字架のイエスに近づけるための類型になるとも言えるでしょう。

イエスの沈黙は、旧約聖書で預言されています。イザヤ53章7節を思い起こさせます。今日読まなかったイザヤ53章1節から少し長いですが読んで見ます。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰にしめされたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、 病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
その私たちの罪をすべて 主は彼に負わされた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思いめぐらしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

と10節まで読みましたが、ここに主イエスの姿を思い浮かべることができます。

マルコの描く「神の子」は力強く雄々しい方ではなく、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10章45節)方なのです。マルコの教会がおそらく迫害の中にあったこともこの受難の物語に影響を与えているようです。

自分たちが迫害の最中にあり、無力で、ただ苦しみに耐え、人からも神からも見捨てられたように思うとき、十字架のイエスもまた、そのように苦しまれたのだ、と感じることはどれほど大きな励ましになるでしょうか。十字架のイエスの姿は今のわたしたち一人一人に何を語りかけているのでしょうか。決して強い人ではなく、十字架に果てる弱いイエス様は、わたしたちの悲しみや苦しみと同じ目の高さで受け止めてくださいます。そして、わたしのそばにいなさい、と、招いてくださっています。