説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年4月8日(復活節第2主日)

弟子たちへの顕現

ヨハネによる福音書 20:19-31

復活節の礼拝で読まれる福音の内容は、次のようになっています。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語でしたが、復活節第2は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」がヨハネ福音書から読まれます。この復活節第2主日の福音は毎年A年B年C年とも同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章が読まれます。

30,31節で、この本には書かれていない数多くのしるしを行なわれた。以上のことを書き記したのは、イエスが神の子メシアであることを、あなた方が信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである、と執筆の目的を記していますが、これはヨハネの弟子が後日書き加えられたともいわれています。

きょうは「空の墓」を発見した夕方の出来事から始まります。弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸口という戸口に鍵をかけていました。なぜ、ユダヤ人たちを恐れたのでしょうか。 師であるイエスが逮捕され、十字架上で殺され、自分たちにもどんな迫害があるか分からない、町中にイエスの残党捜しに躍起になって、捕らえようとしている人々がいるかも知れない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っている様子が記されています。

なぜ、ローマの役人ではなく、ユダヤ人なのでしょうか。このヨハネ福音書が書かれた時期は90年から100年ごろです。 このユダヤ教から迫害されている時期に重ね合わせると、単なるイエスの残党狩りではなく、ユダヤ教から排除され、孤立している状況のなかにある恐怖かも知れません。

そこへイエスが来て、弟子たちが集まっている「真ん中に」立ちます。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これはエイレーネという普通のあいさつの言葉です。現代でもユダヤ人は挨拶で「シャローム」といって挨拶します。21、26節で繰り返し「あなたがたに平和」を用いています。

この復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるされた体験でもありました。「ゆるし」とはイエスと弟子たちの「関係の回復」でした。

イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であると言えません。裏切り行為です。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として迎え入れました。そして、新たに派遣していきます。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。

イエスは、これまで父なる神から派遣された者として、地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくように命じます。

そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。

弟子たちに息を吹きかけて仰せになりました。「息を吹きかけて生きる者としてくとなったアダムの創造を思い出します。復活したイエスは、今や新しい人間の造り主であります。前節の「父が私をお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす」という使徒派遣は、イエスが弟子たちに聖霊を授けることによって行われます。使徒たちは聖霊に導かれて使徒職を果たすだけではなく、使徒職の基礎を聖霊に置くのでした。ここは、ヨハネ福音書における「聖霊降臨」とも言われるほど重要な箇所です。

そして、ペトロや弟子たちに約束されていた罪を赦す権能が、弟子たちに与えられたのです。聖霊はいつも教会の中にあり、いつまでもそこにとどまっているのです。

イエスは、弟子たちに手の釘穴、わき腹の傷を示し槍の傷跡に手を入れさせました。その時トマスはいませんでした。
また弟子たちがトマスと一緒にいるとき、イエスが現れ、先に顕現したときと同じようにいいました。わたしのわき腹に手を入れ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけました。
トマスは、自分の罪が、イエスを十字架に釘付けしたこと、を示されました。それを受け入れ、「わたしの神、わたしの主よ」と信仰告白するしかありませんでした。この主という言葉は、神に対して、与えられていた言葉がイエスにも用いられ、「わたしの神よ」とイエスに言っています。

「神と等しい者イエス、独り子である神はイエス、」という信仰告白をトマスの口を通して、告白させたのです。さらにイエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。と責められます。見て信じる信仰と見ないで信じる信仰とを対比させています。

一世紀末のヨハネの教会は生前のイエスや復活のイエスを見た人はいなくなっていました。初代のキリスト者の宣教使信となりました。「見ないのに信じる人は、幸いである」は、わたしたちへの祝福の言葉だと言えるのではないでしょうか。使徒たちよりも後の時代のキリスト者は、すべて「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは、死によって断ち切られなかったばかりか、神の独り子としての一体感を現しました。また、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない永久に続くものである」と信じることです。

イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。復活したイエスに出会う前に「目に見えないものは信じない」といっていたトマスのように、言いきることも可能かもしれませんが、「目に見えない信仰や、愛など信じない」という生き方は味気ないものです。「信じる」とは単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです。まさに、トマスにとっては生き方を変える出来事でした。

イエスの十字架を通して示されました。十字架の愛は、「赦し」でした。弟子たちの使命を与えられました。この「ゆるし合うこと」ですが、23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とイエスは教えてくださいます。「だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ」なのです。許さなくてもよい人がいないのです。主の祈りで祈る私たちの祈りです。赦すこと、人からゆるされることをとおして神のゆるしを知ることができるのです。

わたしたちは聖霊をうけて、身近にいる人の中に神の十字架の愛、すなわち赦しを伝えていきましょう。