説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年4月15日(復活節第 3 主日)

ルカによる福音書 24:36−48

先週に続いて、起き上がった、復活したイエスと弟子たちとが出会う場面です。先週は、ヨハネ福音書から読みましたが、きょうはルカ福音書からイエスに出会う場面です。 復活から2主日に渡って主イエスの顕現というテーマで確認していきます。
ヨハネ福音書では、聖霊を受け力づけられ、そして派遣されていく弟子の姿が描かれていました。それは今日の福音の少し前にルカ福音書24章13-35節のエマオへ向かう弟子たちの物語が記されています。二人はエルサレムから失意のうちに11キロメートル離れているエマオへ向かっていました。クレオパともう一人の弟子は名前がわかりません。彼は道すがらイエスに出会いました。
しかし、イエスと同行して聖書の解き明かしをされていましたが、それがイエスとは気づかなかったのです。
食卓につき、イエスはパンをとって、祝福し、裂き、彼らに渡されました。すると彼らの目が開かれ、イエスとわかるのでした。分かったとたんにイエスの姿が目に見えなくなりました。この出来事を報告するために二人は、時を移さず出発して風雲急を告げるがごとく、急いで11人とその仲間のいるエルサレムに帰ります。エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、24章33-34節の本当に主は復活して、シモンに現れたと言って、弟子たちは復活したイエスとの出会いの体験を分かち合っていました。その集いの中で再びイエスに出会うことになります。ここに励まし合い、喜びを分かちあい、宣教するという教会の原点を垣間見ることができます。前主日と同じように、聖霊に満たされた教会共同体の出発点でもあります。きょうの福音の始まりです。

これらのことを話している間にイエスご自身が彼らの真ん中に立たれました。そして彼らにいわれました。「あなた方に平和があるように」これは先週のヨハネ福音書の20章19節、21節、26節にも伝えられています。復活したイエスの挨拶でした。
彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思いました。するとイエスは言われました。「なぜどうして取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨がありません。わたしは持っています。」
復活したイエスの姿は、エマオの弟子の場合は「見知らぬ旅人」の姿でしたが、ここでは弟子たちからは「霊」と見られています。彼らはそれでも信じられず、不思議がっているので、イエスは「ここで何か食べ物がありますか。」と言われました。食べ物を食べて見せるまでしたのです。まさにわたしであることの証明でした。そこまで弟子たちは不思議がっていたのです。
しかし、弟子たちはイエスの手足や、魚を食べるところを見て、信じたのではありません。彼らが信じない者から信じる者に変えられるのは、45節で「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」というところです。わたしたちが信じるようになるためにも、わたしたちの内面に働きかけるイエスと聖霊の働きに心を開くことが必要でしょう。そこで十字架にかかることの主イエスの運命を以前弟子たちに語っていたことを話し始めました。「モーセの律法と預言者の書と詩編」は、旧約聖書全体を指す言葉です。そこには「次のように書いてあります。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」(46-47節)。

これは旧約聖書全体をとおして告げられていた神の計画だということでしょう。「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」(44節)とは何でしょうか。この日の朝、イエスの墓に行った女性の弟子に告げられた言葉はこうでした。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカ24章6-7節)。そう言われて「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(24章8節)とも言われています。

今日読まれました使徒言行録第4章9節から「今日私たちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体にも知っていただきたい。この人が良くなって皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです。」と議員、長老、律法学者や大祭司の前でペトロは証しています。わたしたちは主を証しするという使命を与えられています。

また、47節の「ゆるし」は、イエスの活動の最初期にナザレの会堂でイエスご自身が朗読したイザヤ書61章1-2の中にもあります。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4章18-19節)。「解放」「自由」というイエスのミッションは、復活を起点に、エルサレムから始まって全世界へと広がっていきます。この極東アジアにも伝道されました。また「罪」とは「神との断絶」です。
今日の礼拝では「聖餐準備の祈り」で「主に帰る」を用いました。気づかれて週替わりではない、と思われた方もいらっしゃると思いますが、これは主イエスの十字架の死によって神に帰ることができたことの確認をしました。イエスの顕現は、復活したイエスとともに、わたしたちも起こされ、主に立ち返ることです。そして生きる力を頂くのです。このように「罪のゆるしを得させる悔い改め」とは、「人が神に立ち帰り、神と一つに結ばれ、神のいのちを生きること」だと言ったらよいでしょう。
それは「悔い改めを宣べ伝える」のが神の働きであり、復活されたイエスの働きであり、私たちは、過去のイエスの出来事の証人に留まることなく、復活のイエスがなさっていることの証人として宣べ伝えるのです。復活したイエスが今の自分たちの中に働いていて、神と一つに結ばれるいのちを自分たちが生きているということを証しすることでしょう。それは、言葉よりも生き方によるあかしだと言うべきでしょう。わたしたちもこの復活の証人としての使命をいただいているのです。