説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年5月6日(復活節第 6 主日)

新しい掟、互いに愛し合いなさい

ヨハネによる福音書 15:9-17

 きょうのこの福音の個所は、有名な「わたしはまことのブドウの木」の譬えの後に続きます。ぶどうの木の譬えでは、イエスにつながっていること、イエスの言葉のうちに留まることの重要性が語られています。

 「繋がっていること」「留まること」はギリシャ語で同じ動詞「メノー」が使われています。 すなわちまことのブドウの木であるイエスにつながり、イエスの言葉のうちに留まっているなら豊かに実を結ぶという譬えです。イエスの弟子となることによって、父の栄光、父の素晴らしさを表すことになります。

 きょうは父なる神がイエスを愛したように、イエスもまた弟子たちを愛しました。弟子たちを愛するイエスの愛は、人間的な条件付きの愛ではなく、神から出る愛、アガぺーです。他に類をみない愛を体験したイエスが、その体験に基づいて「わたしの愛のうちに留まりなさい」と呼びかけておられます。言葉にはキリストを表す言葉として、ロゴスが使われていますが、ここのわたしの言葉に留まれば、という言葉がギリシャ語でレーマという単語が使われています。これは内面を清めるという意味でもあります。あなた方が私のうちに留まり、あなたは私のうちにあるならば、清められて父と子の交わりの中に入れられている、ということになります。父なる神がイエスを愛したように、イエスは父なる神の愛をうけて、人間が持つ愛ではなく神からの愛を与えてくださるのです。

 きょうはイエスから発出される神の愛について、聞き入っていきたいと思います。

 先ず、わたしの掟を守るなら、という前提が語られています。イエスの愛に留まるには、「父の掟を守って、その愛のうちに留まるように」、イエスの愛に留まるなら弟子たちもイエスの「掟を守る」必要があります。

 イエスにつながって、イエスの掟を守るならば、これらのことを語ったのは、あなた方のうちに喜びがあるように、そして弟子たちにも喜びが満たされるからなのです。

 それはどんな喜びでしょうか、イエスの父との愛の交わりの喜びは、今度は弟子たちに及ぼされるのです。父がイエスに与えた喜びは弟子たちの完全な喜びになります。それは、父につながっているからです。

 きょうも準備の祈りの中で「自分を愛するようにあなたがたの隣人を愛しなさい」と祈りました。きょうの福音は「互いに愛し合いなさい」です。愛し合うならば、わたしはもう僕とは呼ばないあなた方は既にわたしの友であると、おっしゃいます。

 イエスのいう「愛し合う目的」とは、どんなことでしょうか?自分たちだけ愛し合うのではなく、イエスの十字架に命を置かれた愛を基本にして、隣りびとを愛するのです。

 イエスを愛する掟は、なぜ新しい掟でしょうか、互いに愛し合いなさいという命令は旧約の時代から命じられていました。なのに、新しい掟とは、私たちはイエスを通して愛し、父なる神と交わることです。自分の命を友のために置く、というのは十字架の愛のことであり、これより大きい愛はないと、イエスは言います。互いに愛することが新しい掟である。あなたがたはわたしを選んだのではない。わたしたちは自分の意思で信仰をもったと考えますが、そうではなく、私があなたがたを選んだ。イエスがあなた方を私たちを選んだのです。では、何のために選ばれたのでしょうか。何のために任命したのでしょうか、その目的にはあなた方は赴き実が結ぶようになるためです。あなたが求め、あなた方が父の名によって求める者がすべてかなえられるのです。このようにイエスの言葉があなた方のうちに留まるならこのようなみ子と父の関係の中に導き入れるならば、多くの実を結び、弟子となるのです。

 弟子とされた私たちはイエスの名によって祈ります。その祈りの中に多くのことが凝縮されています。父子聖霊が一体となった繋がりと喜びが与えられます。私たちを愛しているという、イエスにつながることがなければ、永遠の命に留まることがありません。そして、イエスの愛を伝える者として、喜びをもって宣教へと向かうことができるのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように」、イエスが弟子たちを愛しました、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じているのです。「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきです。「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなる。これは神の恵みです。「掟」や「命令」をわたしたちの心のうちに働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることなのです。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエスは次の展開を示されました。これは「互いに愛し合うことは、仲間内だけのサークルではなく、外に向かって出かけることです。

 「友のために」という言葉は、イエスが弟子たちを愛したその愛が「友のために命を捨てる」愛だったと言うことではないでしょうか?イエスははっきりと「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と宣言されます。さらにその理由として「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言われます。イエスの愛は弟子たち相互の間に深い心の結びつきが生まれることであります。

 イエスとの人格的な交わりの中に身を置いた人たちは、父と子の交わりの中に入れられました。そうした弟子たちは、宣教へと出かけて行って、実を結ぶことになります。友と呼ばれる具体的な行動はイエスの愛を宣べ伝えて、枝を伸ばしその枝に実をつけることです。

 これは約2000年後のわたしたちも仲良しクラブを超えて、いまだイエスを知らない人たちへ宣べ伝えることです。そのために日々何事も喜びが与えられ、イエスの十字架の愛のうちに留まり、お仕事や作業をする時にも丁寧に祈りながら心を込めての生活でありますように歩みたいと思います。