説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年5月13日(復活後第7主日・昇天後主日)

残される人々がまもられますように

ヨハネによる福音書 17:11c−19

 昇天日の日課である使徒言行録の箇所で、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました。復活日からの流れを振り返りますと、マグダラのマリアへの出現、二人の弟子へ現われました。「弟子たちへの顕現」、そして「派遣命令」。この派遣命令の特徴は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という遺言でした。地上で活動したイエスによる弟子たちの派遣がユダヤ人、異邦人たちというふうに限定的でしたが、弟子たちへ与えられたミッションは全世界と広範囲に拡大されました。

 告別の説教の後、「イエスが昇天」された直後の主日の日課として、残された人が一つとなるようにとイエスは、神に願います。

 きょう読まれた福音では、イエスは、先ず弟子たちのために祈ります。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった聖名によって彼らを守ってください」と祈ります。彼らは世に残されますが、世は彼らを憎んでいます。なぜなら「わたし(イエス)が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」と父なる神に祈ります。

 それは「イエスが弟子たちとともにいること、励ますこと」です。イエスが天に昇ったあとの弟子たちのことを気遣っているのです。この世は邪悪に満ちた悪の支配する世です。この世のものでないと自らおっしゃるイエスは、弟子たちが生きにくい世にあって、弟子たちを世から救い、守り、助けてくださいと父にお願いしてくださっています。

 また彼らが彼らの中にわたしの喜びを彼らがもつように、と13節で語られています。

 イエスにとって、死ぬことは「神のもとに」行くことです。それは父なる神と共に喜びの中にいたところに帰ることでもあります。しかも「わたしの喜び」とは、何かと言えば、イエスは神のもとにある喜びの状態にあることであります。

 それは、イエスが自分勝手につくりだしたものではないのです。神のもとで憩っていた時の喜びを世にももたらすのがイエスの役割です。この喜びは父との交わりの中で出来上がる喜びなのです。またこの喜びは、弟子たちにとってイエスと共にあることは、大いなる喜びでありました。それをイエスは弟子たちに伝えます。信仰共同体の枠を超えて、信仰へ至っていない外の人々へ広げるのです。父からイエスへ、そして、イエスから弟子へ、さらに弟子からイエスを信じる人々へと伝わっていく喜びなのです。

 このような喜びは人間がつくりだす喜びではなく、神から来る喜びです。使徒パウロは「人を喜びで満たすのは神である。神の国とは飲み食いではなく、聖霊によって与えられる喜びである。喜びは、霊が実を結ぶのです。」と述べています。み言葉を受け入れた人は喜びをもって奉仕の業に励んでいきます。イエスのためにわたしは宣べ伝えたい。わたしを救ってくださるイエスのために信仰共同体の中で、何かお手伝いをしたいという、思いがわきがって来る経験を皆様はお持ちだと思います。そこにはイエス様を知った喜びがあるからです。そして、キリスト者の模範となるのです。また、使徒パウロが 使徒として働くとき、そこには喜びがある。どんな苦難の中にあっても喜びが満ち溢れている。と述べています。パウロの祈りは喜びを伴い、教会の信徒たちはパウロの喜びであります。

 信徒一人一人の方の喜びのために働くのがパウロの務めなのでヨハネによる福音書15章9節で「父がわたしを愛されたように,わたしもあなた方を愛してきた」とイエスはおっしゃいます。神とイエス、そして弟子を結ぶ深い結合の愛を示しています。わたしたちは神の愛によって生きるようになりました。生かされるようになりました。 

 イエスをとおして、世に愛を示す神に触れることがわたしたちに喜びをもたらすのです。ひとは神の純粋な愛に出会うとき喜びに満たされるのです。

 ともすればわたしたちは世と歩調を合わせて生活します。それは世の流れに身を任す方が楽に生活できると、思わされてしまうからです。そうではなく、父に身を委ねて、判断を父にお委ねして、み言葉のなかを歩む方が確かな歩みになるのです。父よ、助けてくださいと私たちはすがるとき、「神は、その一人子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠のいのちを得るためである」(ヨハ3:16)とありますように、世に愛を示されました神は、神に背く世を捨て去ることなく、イエスを遣わして、いのちの道を私たちに示されました。

 そして、わたしたちは世に残されたのは、イエスの愛を受け継ぎ、世の人々に神の愛を宣べ伝え、実践で示すためです。これがイエスの願いであります。

 残される人々が聖別されますようにという、福音が告げられた人に決断が問われているのです。だとすれば、わたしたちが信仰共同体の外の人々をどのように見て福音を語るのかではなく、まず第一にわたしたち自身が生き方と言葉のすべてをもってこの福音を告げているか、ということが問われるのではないでしょうか。初代教会の人々は苦難のなかで喜びをもって、イエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝えていきました。

 次主日の聖霊降臨の日に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章3-4節)とありますが、この箇所の「舌」も「言葉」も原語は同じです。その日、使徒たちが語った言葉は、民族や言語の壁を越えて人と人とのコミュニケーションを可能にする言葉でした。悪霊が人を神から引き離し、人と人との関係を破壊する力だとすれば、逆に聖霊は神と人、人と人とを結ぶ力です。ほんとうにわたしたちの働きが神と人・人と人を結ぶものであれば、どれほど力強い「しるし」になるでしょうか。わたしたちは、聖霊降下を祈り、聖霊を受けて、助けられて日々の生活を送りたいと思います。