説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年5月20日(聖霊降臨日)

『ヨハネによる福音書』による聖霊降臨

ヨハネによる福音書 20:19−23

 きょうの礼拝で読まれた福音書の箇所は、復活節第2主日に読まれたところと重複しています。第2主日は19-31節まで選ばれていました。ここでは、週の初めの日、ユダヤ人たちを恐れて、いくつもの戸が閉められていました。イエスはそこにいる弟子たちに顕れ、挨拶をかわしました。「あなた方に平和がありますように」という挨拶と手とわき腹を見せて、釘の後の穴とわき腹を見せ、弟子たちは、主を見て、それは十字架にかけられたイエスである事を知り、喜びました。さらにトマスへの顕現までありました。

 きょうは、19-23節までの弟子たちへの顕現の意味するところを見ていきたいと思います。

 イエスは再び「平和がありますように」と繰り返しました。この後の方の挨拶は実質的な意味を持っています。告別の説教で語られたイエスの約束の成就として、「平和」を弟子たちにもたらします。

 弟子たちは神からの平和で満たした後で、イエスは彼らに使命を与えました。それは、イエス自身が神から託された使命であり、弟子たちはその使命に参与する者となることです。そして、イエスは彼らに息を吹きかけられます。

 弟子たちが与えられた使命を担い、それを遂行することができるようにと、彼らを新たらしく生きる人に、変えるためであります。

 まさにイエスの吹きかけられた息が聖霊そのものであります。弟子たちが使命を実行するためにどのような権能を与えられたのか宣べられています。

 これがきょうの福音の概要と言えるでしょう。

 では、どのような権能か、23節に、「誰の罪でも、あなた方は赦せば、その罪は赦される。誰の罪でもあなた方は赦さなければ、赦されないまま残る」と罪を赦す権能についてイエスは明言されました。あなた方はあらゆる人の罪を赦すことができる。「赦す」の「アペーテ」を、手放せばと訳すと、ある人を強く意識し、どんな人の罪もあなた方は手放すならば、その罪は不問にふされるのです。罪に問われないのです。

 どんな人の罪もあなた方は手放せば、赦される。ある人の罪をあなた方は持ち続ければ、罪は許されない。どんな人の罪もあなた方が握り続けると罪は残る、とイエスは罪を赦す権能を弟子たちに授けられたのです。そのために弟子たちは息を吹きかけられました。聖霊を受けたのです。

 ここではイエスは、握りしめ、保持されている罪を聖霊の力を用いて、赦されるのです。

 父が私を遣わしたように、わたしもあなた方を遣わす、この遣わすは、命令形ではありませんが、現在形で温かく包み込んでくださるイエスの包容力を感じます。

 平和があなた方にあるように。シャローム、挨拶と息を吹きかけられた弟子たちは聖霊に満たされて、喜びで一杯になりました。戸という戸のすべてに鍵をかけ、あれだけおびえていた弟子たちは、恐れから解放されて喜びと平和を与えられたのです。復活の命をもつイエスが現れ、手の傷を見せることによって、主だ、と安心して、平和に満たされました。

 イエスが与えられた平和が、復活の命を生きるイエスと共にいるという喜びを与えられました。この平和が単なる平和ではなく、「平和(エイレーネー)」、とは戦争や争いのない状態であり、「一致・調和」秩序ある状態を意味します。また、シャロームの「安心・平安」の意味するところでもあります。平和が神からの賜物であります。

 パウロの手紙に倣ってわたしたちは、「主の平和がありますように」と手紙に書きますが、このパウロの平和の挨拶は単なる挨拶を超えて、神がもたらす救いと同義でもあります。この平和がイエス・キリストを通して人に与えられる神の恵みであり、賜物です。

 ヨハネ福音書の平和の概念は、イエスが弟子たちに約束していた平和であります。イエスが与える平和の中で、弟子たちはイエスと共に生きるのです。この平和に招き入れられた者は復活の命に生き始めているのです。わたしたちは、平和のなかに生かされているのです。

 復活の命に生きるものとなったイエスは、使命と権能を弟子たちに与えました。それは私たちに与えられる苦難を乗り越えていくときに、わたしたちに与えられる平和がイエスの平和であります。また、イエスが十字架の死をくぐって、新しく復活され息を吹きかけられ、復活の命に生きる者へとわたしたちを新しく創造されました。

 神の息は物事を新しくして、人を全く新しい存在へと変えます。そして、イエスの息を吹きかけられた弟子たちは、霊を受け、与えられた使命を完遂するために力を与えられているというしるしでもあります。

 黄泉に降り復活したイエスは、わたしたちに息を吹き入れ、聖霊で満たし、多くの権能を与え、わたしたちの生活の場にいつも共にいてくださいます。わたしたちはそんなイエスと共に喜びの生活を送っていきたいと思います。