説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年5月27日(三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 )

イエスとニコデモの対話から十字架に示された神の愛

ヨハネによる福音書 3:1−16

 教会の暦では大斎節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりました。復活のローソクも祭壇から取り除かれました。復活のろうそくは昇天日の福音書朗読のあとにしまわれるところもあるようです。その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。今日は「三位一体」という神学的な教えを考えるというよりも、イエスの受難と死を見つめ、その復活を知り、先主日に聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊なる三位一体の神の働き全体を振り返りこの主日を祝えばよいでしょう。

 聖霊降臨後の最初の主日にヨハネによる福音書が選ばれています。

 ヨハネ福音書は、イエスを「独り子である神」と呼ぶ神学的序文(1:1-18)で始まりますが、文脈を見ていきますと、3章1-15節は、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということをめぐって議論が行われました。最初にイエスとニコデモの対話が出てきます。続く16-21節は、対話というよりは神学的な議論となっています。22-30節は出来事の描写に戻り、洗礼者ヨハネと彼の弟子たちの対話が述べられる。という構成になっています。

 ヨハネ福音書3章のテーマは「新たに生まれる」ということをご一緒に見ていきたいと思います。ここは出来事を描写する部分と神学的な議論の部分から成り立っています。共観福音書では、イエスがエルサレムに来たのは1回でありますが、ヨハネでは3回です。このエルサレムに滞在しているところにニコデモが現れるという場面です。著者は出来事の描写に関しては既存の伝承を利用していますが、議論では自説を述べています。

 ニコデモはヨハネ福音書の3章と7章と19章にだけ登場する人物です。ニコデモは「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことができないからです。」と語っているのは、イエスへの尊敬心の現れであり、イエスと親しく語り合いたいと願っているからだろうと思われます。しかしイエスが「新たに生まれる」ことが、必要であると語ることによって、ニコデモとの間にある種のずれが明らかになっていきます。

 それでは、新たに生まれるとは、どういうことでしょうか。

 ニコデモが使っている「「もう一度」母親の胎内に入って生まれる」の「もう一度」は別の言葉です。ここがイエスとニコデモのすれ違っているところではないかと思います。イエスは人は上から生まれなければ神の王国をみることができないというのです。

 「誰でも水と霊によって生まれなければ,神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 聖書では「肉」という語は、「皮膚と筋肉」を指すだけではなく、「体の部位を表す言葉は人間全体をも表される」「一部が全体である」という人間観があります。それに従って解いていきますと、肉というのは「はかなく消え去る肉のように、弱くはかない人間存在そのもの」を表します。これは日本語にはない使い方です。はかなく消えていく人間存在を表すときに肉と言います。それは「神の助けを拒み、神と無関係に生きる人間存在」のことであります。滅びゆく肉の人間です。

 これに対し、「霊」と訳されるプネウマは、もともとは空気の移動を表す言葉であります。「息」とか「風」を意味します。イエスはプネウマを風として、人知を遥かに超えた霊の働きについて語ります。この霊は神からきて人間を変える力を表します。さらに人間存在をも表すことができるのです。この力によって「肉」というあり方がめくり取られ、剥がされ、「霊」という生き方に招き入れられるのです。

 そこでイエスは「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と教えます。「新たに生まれるとは、霊の働きが人間の理解を超えている上からの力であることを知ることから始まるのです。

 ニコデモがイエスの言葉をほとんど理解できなかったのは、どうしてでしょうか。ファリサイ派のニコデモは律法の言葉に縛られて、霊の働きに身を委ねることができなかったのかも知れません。ファリサイ派のように、律法を守りたい一心から細則を作り上げると、それが気になって、それに縛られてしまいます。律法を守るつもりが、律法本来の精神から外れた生き方になり、肉という生き方にはまり込んで行きます。それは、人間の思いの中に生きるからです。

 そこで「肉」というあり方から脱却するには、「水と霊によって」天から生まれ、霊の導きの中で生きる「霊の人」にされなければならない、とイエスは教えています。そのことのほかには永遠の命を得る道はないからです。

 14-15節では、イエスを表す呼称は「人の子」です。これは民数記21章の故事を踏まえて「人の子が上げられる」必然性を述べます。その故事というのは、旅するイスラエルの民は荒野で神とモーセに向かって不平を言いだしました。主は炎の蛇を民に向かって送られました。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。民はモーセのところに来て罪を懺悔しました。7節「モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば,命を得る」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと,命を得た。」という出来事に倣ってイエスの十字架を仰いだものは、救われるということを表しました。

 15節ではその目的が「信じる者が永遠の命をもつ」ことにあるのです。

 十字架を仰ぎ見るとき、人は神の無限の愛を見つめることができるのです。神はこの世に働きかけ、人が神に応答するそのとき、人は上から生まれ、神の思いの中に生きる者に変えられてゆくのです。

 きょうの日課の神から離れる世に、神は独り子を遣わされたのです。「御子を信じる者が一人も滅びない」のです。神が世を愛しています。世にあるニコデモをも招いてくださっています。聖霊を受けて、世の荒波に向かうわたしたちは、救いへ向かうか滅びに向かうのか分からないのです。そのようなものにも、神は救いのために深い十字架の愛を与えてくださいました。

 きょうは、わたしたちに十字架の愛を見つめて生きるように招いてくださっています。赦しの十字架を見つめて歩んで行きましょう。