説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年6月3日(聖霊降臨後第2主日 )

イエスは安息日の主

マルコによる福音書 2:23−28

 教会歴では、聖霊降臨後のいわゆる緑の期節になりました。

 イエスのガリラヤ宣教の初めは「カファルナウム」でした。「会堂」で汚れた霊を追い出し、数日後、イエスは再びカファルナウムに来られました。

 今日の日課の少し前の2章1節では、中風の人をいやす話が(2:1-12)、橋渡しとなって、論争物語に入っていきます。罪人との食事 (3-17節)、断食論争(18-22節)、そして、きょうの安息日論争(23-28節)が展開されます。

 きょうは、イエスの弟子たちが安息日に穂を摘んだことをきっかけとして安息日に関する論争が始まります。申命記23章の律法では他人の畑でも鎌を使わずに手で穂を摘むことであれば、許されていました。

 申命記23章26節には「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」と記されています。律法の規定への違反と見なされたのです。ファリサイ派の人々は「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と警告しました。

 ファリサイ派の人々は、自分たちが「見た」律法違反の行いを、イエスにも「見よ」と言って、師であるイエスを糾弾します。

 ファリサイ派の人々の立場に立てば、イエスの弟子が行なっていることは罪深いことである。彼らには、イエスがそれを咎めもせずにいるのが許せないのでしょう。彼らは、イエスに目の前に起こっていることを見て、間違いを認めろと詰めよります。警告を受けていながら、安息日規定を無視する者は、石打ちの刑に処せられたのです。

 ファリサイ派に対するイエスの答えは25-26節と27-28節の二つの部分から成り立っています。前半(25-26節)ではサムエル記上のダビデの逸話を使ってイエスは答えています。

 ファリサイ派の問いは、なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。イエスの答えは、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか」と切り返しますが、彼らの感情を逆なでするような言葉を発します「一度も読んだことがないのか」とこのサムエル記上2章1節に記されている出来事をもって反論しました。「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者にも与えたではないか」。このことに注目しますと、「何をしてはならないか」ということに興味を置くファリサイ派の人々に対して、イエスは「してはならないことをした」ダビデを例にあげて、律法を杓子定規に読もうとするファリサイ派の誤りを指摘していることが分かります。

 サムエル記上21章1節から7節というのは、「ダビデが供えのパンを食べ、逃亡中のダビデがノブの祭司アヒメレクのもとに行き、パンを所望するが、その日は「パンを供え替える日(=安息日)」であり、普通のパンがなく、「 主のもとから取りさげた供え物のパン」を食べたという故事です。

 これを読んだことがないのかファリサイ派は聖書を守ることを大事にしていた人たちですから、イエスが引用した聖書箇所を読んでいないはずがないのです。「聖書を十分に知っている」はずのファリサイ派の人々に、 「一 度も(十分に)読んだことがないのか」と答えたのです。「あなたがたは読んでいるのに読んでいない」と言っているのです。イエスとファリサイ派の人々との間には、読み方に大きな違いがあるのです。

 ファリサイ派的な敬虔さ真面目さに対して、イエスは25-26節でダビデの故事を引用して、弟子たちをかばいました。さらに27-28節では「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と述べて、ファリサイ派の頑固な真面目さを批判しました。イエスのこの言葉は安息日そのものを否定したのではありません。安息日を大事にしようと力むあまり、申命記の律法に付加された細則に目を奪われ、「安息日は人のためにある」という本来の意味を忘れてしまったファリサイ派的な行動に異議を唱えています。

 まとめてみますと、25-26節の聖書による論証は初代教会がユダヤ教から取り入れた基本的な神学的作業過程で新約聖書の中で大きな役割を果たしていることが証明されています。

 27-28節では、安息日に対する人間の優位を無条件に宣言します。確かにここで安息日自体が廃止されているわけではありません。しかし、この言葉はいかなる安息日規定も、それが人間を圧迫し、人間の幸福を妨げる限りにおいて無視されてよいことを意味しています。イエス=人の子は、安息日に関して大胆な宣言をしました。「だから」罪人・徴税人との食事、断食などの問題だけではなく、安息日に対しても主であるのです。

 イエスは、誕生から十字架の死に至るまで、「人の子」としての生涯を送られました。それは単なる人間としての一生ではありませんでした。彼は罪を赦す権能もった「人の子」であります。人々の贖いのために受難し、生け贄になり、復活した人の子であります。また彼は、かの日には「天の雲を伴って」現れる「人の子」であります。

 ファリサイ派は、安息日というのは、人間の生の根源である神と向き合う日であることを見落としてしまいました。安息日は、肉体を休めるのではなく、安息日は人を生かそうとする神の思いに出会うためにあるのです。それを教えることができるのは、安息日の主であるイエスのほかにはいないのです。主日には、神の思いに出会い新しい復活の命に生きていきましょう。