説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年6月17日(聖霊降臨後第4主日)

神の国のたとえ

マルコによる福音書 4章26-34節

 4章34節では、たとえ話には特別な説明が必要であるように言われています。11節にもその理由についてこうありました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人には、すべてがたとえで示される。それは、
『かれらが見るには見るが、認めず、
聞くには聞くが、理解できず、
こうして立ちかえって赦されることがない』
ようになるためである。」

 神の国は「たとえで」しか語ることができないのは、それが人間の理解を超えた現実だからです。イエスは人知を超えた神の国を説明するためにはたとえを使わざるを得ないのです。しかし、たとえが指し示す神の国をどこまで理解できるかは、聞く者の姿勢にかかっています。神の言葉に心を開くならば、たとえが示す神の国を生き生きと捉えることができます。しかし、自分の既成の考え方に捕らわれて、神の言葉への敏感さを欠くなら、たとえは不可解なものに終ります。そこで「 彼らが聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた」と述べています。そういう意味で、わたしたちは柔軟な姿勢で神の国についての「種まき」と「からし種」のたとえをご一緒にみていきましょう。

 26節の成長する種のたとえは、「神の国は次のようなものである」で始まり、30節で「神の国をなににたとえようか」という神の国の何らかの特徴をあらわしています。この二つのたとえによって、神の国がどのような現実性をもっているか、人は種をまいた後は、寝起きを繰り返すだけで、穀物の成長にはいっさい関与していないということが述べられています。

 29節では、人間はどのように実が熟すのかを知らないのですが、その収穫にあずかれます。収穫の時が必ず到来するように、神の国は必ず完熟し、豊かな実りをもたらします。種をまいた人には自然に成長しているように見えます。

 きょうの「神の国についてのたとえ」が、ヨエル書4章13節「鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した」という記述を踏まえた、終末を示す語として使われています。この譬えの要点を「刈り入れ」と「収穫の時」の両方にあるということもできます。神の国は人間の努力と無関係に「おのずと」成長するのであり、今は目立たなくとも、現在すでに始まっています 、将来、それは必ず完成し、「収穫の時を迎える。」というメッセージが語られているのです。

 マルコは32節の「からし種」の譬えで「地上のどんな種よりも小さいが」という言い方によって他の者との対比を強調しています。イエスの活動は目立たない形で始まった神の支配がやがて世界大の規模で完成するに違いないとの確信を現わしています。

 神の国はからし種そのものに譬えられているのではなく、からし種に生起する出来事に譬えられています。神の国の最初は、無に等しいですが、やがて大きなものへと成長し、葉の陰の下に鳥が住むようになります。

 エゼキエル書17章23節の「イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のある者はすべてその枝の陰に休む」という言葉をふまえていると言われています。空の鳥は異邦人を指すことになります。神の国は異邦人を含んで大きく育っていくことになります。

 神の国の秘密は、今は小さなからし種のように世界から隠されていても、やがて、世界に明らかにされるのです。

 この種まきの譬えとからし種の譬えをまとめてみますと

 神の国(支配)は人間の努力がなくても「おのずと」完成に向って成長し、「空の鳥」が巣を作って住むほどに大きなものとなります。

 作物が成長するのは目に見えて分かります。芽が出て、穂が出て、穂先に実をつける。しかしそれがどのようにして、成長するか、分からない。神の働きは、分からないのです。信仰の目によってしかそれは分かりません。それは神の力によって成長する。それを人は、自然にほっておけば、成長するのです。

 しかし、「どうしてそうなるのか」は分からず、まさに「おのずと」、勝手に育つかのように見えます。もちろん、ここでの「おのずと」の背後では神が働いています。しかし、神の働きは「目に見えるものによらず、信仰によって」認知されるのです。従って、人の目にとっては、「おのずと」と映ることになります。

 わたしたちキリスト者はそこに神の力、神の働きを認め、信じます。

 イエスはたとえによって、目に見える現実の奧に、確かに始まっている神の国の現実を指し示しています。からし種のような現状は今は取るに足らないように見えても、そこには神の力が働いています。それは成長して、全世界を包み込むような豊かな実りをもたらします。わたしたちは誰に信頼すべきでしょうか。それは、自分の力ではなく、この目には見えなくても、何よりも力強い神の働きがそこにあることに気づきます。 二つのたとえの中心は、共に神への信頼を呼びかけています。農夫は種の成長の秘密を知らないし、刈り入れの時を思うままに変えることもできないのです。けれども、不安に脅えることも、思い煩うこともしない。実りを信頼して、農夫は農作業を続けていきます。神の国も同様であります。それは目にも見えず、日時の設定もできません。しかし、確実に近づいています。神の国をもたらすのは、人の働きではなく、神の働きであります。農夫を見れば、誰に信頼をおくべきかを理解することができます。イエスのたとえ話を今のわたしたちの現実の中に置きなおしてみることでもあります。

 神の国の完成に向けて着実に働く神の力に信頼し、困難があったとしても、今を力強く生きるべきであります。その先には神の国の完成を見ることができるというそのような励ましや希望を持つことができるのです。