説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年6月24日(聖霊降臨後第5主日)

イエスとは誰なのか

マルコによる福音書 4章35-41節

 マルコによる福音書の4章35節から8章26節では、5,000人の供食や海上歩行をはじめとする一連の奇跡物語が語られていますが、ここで注目されるのは、これらの奇跡物語がしめくくられる8章29節では、「あなたはメシアです《とのペトロの信仰告白が述べられることであります。この4章35節から8章26節の一連の奇跡は、このペトロの信仰告白を導き出すための出来事だとも言えるでしょう。このような文脈からきょうの4章35-41節を見る時、41節の「いったい、この方はどなたなのだろう《という問いは非常に大きな意味を持ってくるものです。この「イエスは誰なのか《という主題は、形を変えて、他の箇所でも取り上げられ、8章29節のペトロの信仰告白において一つの結論に至るわけです。さらに広くマルコ福音書全体の広い文脈から見るならば、この問いは、イエスの十字架上の死後、「本当に、この人は神の子だった《(15:39)といった百人隊長の告白へとつながってゆく重大な問いでもあるのです。

 わたしたち信仰者にとって、「イエスとは誰でしょうか《と問い続けることが日々の生活のあり方を問うものであります。

 35節から見ていきますと、「その日《とは、湖畔にいる群衆に舟から教えを説いた日のことであります。「舟の中《が強調されているのは、この「舟《に特別な意味合いを込めたいからだということができます。夕方、イエスと弟子たちは舟で向こう岸に漕ぎ出します。この舟は4章1節以下で、イエスが座って教えを説いた舟であります。マルコは36節で「イエスを舟に乗せたまま《と書き、この舟に注目させています。この舟は湖を渡る移動手段であるだけでなく、この世を渡る教会を表す象徴でもあります。教会の歩みは、湖を向こう岸へと漕ぎ出す船路のように、途中で嵐に遭遇するかもしれません。イエスは神への信頼に基づいて、「私たちは渡ろう《と弟子たちに呼びかけます。弟子たちがこの呼びかけに従っていきます。

 福音書での用例ではすべて「小舟《、特にガリラヤ湖上の小さな漁船を表わします。「舟《で網の手入れをしていたゼベタイの子ヤコブとヨハネは、イエスに呼ばれると、「舟《を残してイエスに従いました。ここでの舟は彼らの古い生き方の象徴でもありました。ガリラヤ地方を宣教するイエスや弟子にとって、舟は欠かせない移動手段であります。しかも単なる移動手段では終らず、湖畔の群衆に教えるイエスが腰を下ろす場所であり、弟子がイエスのしるしを体験する舞台でもあったのです。つまり、群衆に教えを説く説教台の役割を果たした舟でした。世に宣教し、世を渡って行く教会を表す象徴となっています。この岸和田復活教会の天井は舟底をイメージして造られていると言われています。

 マルコは37節で、激しい突風のために舟が波をかぶり水浸しになるほどだった、と書いていますが、これは世の荒波をかぶる教会の象徴でもあります。イエスは風を叱り、波をおさめることによって、世にある教会が信頼すべき方が誰であるかを示しています。そこへ突風が生じ波が襲いかかります。それにも関わらずイエスは枕をして眠っています。「眠っていた《は、イエスの神を信頼しきっている態度が強調されています。神に信頼を置くイエスは、嵐の時も平安の内にありました。これに対して、弟子たちは狼狽して、イエスに「私たちがおぼれてもかまわないのですか《と訴えます。この「私たち《は弟子たちでなくイエスをも含むなら、「あなたも含めて私たちが皆、溺れようといるのに、あなたは気にならないのか《の意味になっていきます。同じ「私たち《というグループの中にいることがかえって、神にすべてをゆだねて眠るイエスと、神を信頼しきれずに狼狽する弟子たちとの対比を浮き彫りにしています。

 詩編107編に荒れ狂う水を治める(詩107編9-30)ことができるのは神だけであると記されています。イエスを通してその神の力が働いていることをみることができます。波風は力を失い、「大きな静けさ《が生じました。平安と権威に満ちたイエスの姿がここに描かれています。海と神の働きを私たちは、モーセの出エジプトの時に海を二つに裂き、紅海を渡る、という出来事を想い起します。このようなイエスの行動の背後には神への信頼があります。イエスは神を信頼しているから、水浸しになった舟の中でも眠っており、風を叱って静めることができるのです。イエスは弟子たちに、なぜ「臆病《なのか、「信仰を持たない《のかと叱りますが、これはイエスと弟子の違いが何に由来するのかを明らかにしています。弟子たちの狼狽は神に委ねきれない臆病さから生じ、イエスの静けさと権威は、神に信頼する信仰に根ざしています。

 荒れ狂う波を静めたのはイエス自身であるというより、むしろイエスの信頼に応えて働く神であります。イエスは「なぜ臆病なのか、信仰を持たないのか《と叱ることによって、彼が身をもって示した神への信頼を呼びかけているのです。荒れ狂う波風を一言で静めたイエスを前にした弟子たちは「恐れ《に捕らわれながらも「このかたはどのような方か《と問い始めるのです。「この人は誰なのか《という問いを発し続けながらイエスに従っていく、嵐の中でもイエスは神に信頼して行く姿勢に倣うのです。イエスを通して、神の力を信じ、恐怖心が神を畏れ、畏敬の念を抱く、これを問い続けることがこのメッセージに込められています。弟子たちは上信仰ゆえに批判されます。上信仰と臆病は当時の教会において信徒が克朊すべき課題でありました。 わたしたちの信仰のあり方も「この方はどのような方であろうか《と、問い続けることによって、十字架にかかり、甦られたイエスと出会い、イエスがともにいてくださることによって、わたしたちのうちにある上信仰から来る恐怖を克朊していきましょう。そして安らかな心をイエスを通して頂いていきましょう。