説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年7月1日(聖霊降臨後第6主日)

マルコによる福音書 4章22-24、35-43節

 きょう読まれた福音書は、会堂長が娘の救いを願い、人々が娘の死を嘆いており、イエスが沈黙を命じています。会堂長と人々とイエスは、各人各様に行動しています。その相違がきょうのテーマと関わっています。先週に続いてイエスを通して働く、神の恵みと力について記されています。

 会堂長とは、会堂の最高責任者であり、礼拝や建物の管理運営を行ない、地域共同体の諸問題にかかわることもあったと見られています。町の世話役のようでもあっただろうと推測できます。そのような会堂長ヤイロは自らの体面を捨て、イエスの足もとにひれ伏します。愛する娘の命のためにイエスにすがるヤイロの必死の姿が現されています。幼い娘は「終わりにある《という言葉。これは「瀕死の状態にある《ことを意味しています。この娘はすでに12歳になっていますが、彼には、愛おしい娘であって、あくまでも「幼い娘《であるのです。

 ヤイロは死にそうになった娘を救ってくださいと、イエスに「しきりに《お願いするのです。この娘が生きることを願う会堂長の必死の願いに、最愛のものを失う恐れに脅える人間の姿が端的に表されています。

 わたしたちも身近にある最愛の人を失う時、悲しさのなかに身も心も落ち込んでしまいます。「イエスはヤイロと共に出かける《ことによって、イエスはヤイロの懇願に行動で応えます。会堂長の家へ向かう途中、25-34節の出来事が起きます。12年間病に苦しむ女性をイエスがいやす間に、ヤイロの娘の死が告げられます。「お嬢さんがなくなられました。もう先生を煩わせる必要がないでしょう《。とまで言わせます。イエスが他の者のいやしに時間を使っている間に流れ去った時間を強調しています。

 娘の死の知らせを「そばで聞いた《イエスはヤイロに語りかけます。「恐れることはない、ただ信じなさい《と呼びかけます。恐れているヤイロにイエスはそれを止めるように命じます。何を信じるのか、希望がまったくなくなった人に、イエスの信じる神への信頼をイエスは求めています。

 会堂長の家に着くと、人々は娘の死を「しきりに《嘆き悲しんでいましたが、この嘆きはイエスの目には「騒ぎ《と映ります。イエスは「なぜ騒いでいるのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ《と語ります。

 少女は死んだ。しかし、生きる希望を与える神を見るイエスが来るとき、「死《はもはやその力を失って「眠り《となります。なぜなら、イエスは死者を「起こす《、すなわち「復活させる《権能を持つからです。

 人々の嘲笑は、そのイエスを認めずに目の前の現象に捕らわれているから当然でしょう。人々は「しきりに《嘆き悲しんでいますが、イエスを通して現れようとする神の力に気づかないならば、それは「騒ぎ《でしかないのです。そのような人々を追い出してから、イエスは子どものいるところへと入っていきます。

 あざ笑う人々とイエスとの対比が強調されます。イエスは37節でも群衆がついて来るのを許しませんでしたが、ここでも人々を追い出しています。奇跡は魔術ではなく、人を楽しませる見世物でもなければ、人が自分のために利用すべきものでもありません。神に身を開いたものだけが奇跡を奇跡として受け入れることができる、と考えられているからです。

 会堂長がイエスに求めたことは娘に「両手を置く《ことでした。そのようなイエスは子どもの両親と三人の弟子だけを連れて子どもの部屋に入ると、その手を取って、「少女よ、起きよ《と命じます。「起こす《(エゲイロー)は、新約聖書中、イエスの復活を表すのに多く用いられます。この物語も「よみがえり《に関係し、復活についての象徴的な意義を持ちます。イエスのいやしは「手を置く《という魔術的な動作によってではなく、「少女よ、起きよ《と語りかける言葉によって引き起こされます。その言葉の力強さは、少女が「すぐに《起きあがって歩き出したことに示されています。「タリータ クーム《。イエスが用いていたアラム語のままで伝えられています。このように、アラム語の原語がそのまま残されたのは、イエスの肉声を残すためであり、イエスの言葉の力強さを体験した者の信仰の表明でもあるのでしょう。また、この奇跡物語の背景には、エリヤがサレプタの女の息子を生き返らせ、エリヤの弟子エリシャがシュネムの女の子どもをよみがえらせた故事があります(王上17:17以下、王下4:18以下)。イエスは「手を取って《語りかけます。会堂長の家に向かう途中、12年間、出血に苦しむ女性がイエスに触れていやされます。家に入ったイエスは「眠った《娘の手を取って、彼女を起こします。ユダヤ教社会の価値観から言えば、死者や婦人病の女は「汚れた《ものであり、触れてはならないものでありました。少女は起き上がり、「歩き回っていた《。少女は「12歳《でした。会堂長の家への途中でいやされた女性は12年間、病に苦しんでいましたが、この少女が今まで生きた長さと同じです。人々を追い出し、奇跡を目の当たりにした人にも沈黙を命じます。

 マルコがこれを記すのは、読者に奇跡の意味を思い起こしてほしいからです。

 マルコ福音書に繰り返し現れる沈黙命令は、見える奇跡の向こうに神の力をしっかりと見るように促しています。ヤイロが娘の死を恐れ、人々が騒ぐ間も、イエスの目は神へと向けられています。だから、25-34節の出来事によってヤイロの家への到着が遅れ、娘が死ぬことになってもイエスには上安がありませんでした。父なる神の勝利を知っているからです。神に信頼しているからです。イエスは、娘の生死という現象に捕らわれている者の目を、神へと向けさせます。奇跡には神が働いています。その働きを見つめるなら、神がどういう方であるかを知ることができます。イエスは奇跡を通して神を知ることを「しきりに《願っています。