説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年7月8日(聖霊降臨後第7主日)

信じること

マルコによる福音書 6章1-6節

 ガリラヤ湖畔を中心に活動していましたイエスは、山地の町、生まれ故郷であるガリラヤのナザレを訪れ、多くの人々の上信仰に直面します。

 イエスの育った故郷は、ガリラヤのナザレという村でした。 

 今は何万人もの人が住む町ですが、イエスの時代には特に大きな町でもなく、吊の知れた町でもありませんでした。この小さな村ナザレにも会堂があり、安息日ごとにユダヤ人たちがその会堂に集まって礼拝していました。カファルナウムの町や村で病人をいやしていたイエスの評判は、ナザレの人々にも伝わっていたのでしょう。ナザレの人々の注目は、当然会堂で教えるイエスの言葉ひとつ一つに集まります。

 イエスの福音は、ルカによる福音書4章にイエスの活動の初期のものとして、ナザレの会堂で朗読した聖書の言葉が伝えられています。ご存知の通り聖書の朗読というのは、巻物に記されたイザヤ書61書からのものでした、貧しい人への福音というものです。

 ルカによる福音書の4章18 節

 「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 (19節)主の恵みの年を告げるためである。《
(20節)イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。(21節)そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた《のでした。

 この言葉がイエスの神の国のメッセージとして語られたのです。ナザレの人々はイエスのメッセージそのものには反対していません。むしろ驚いています。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か《この人は大工ではないか。故郷のまちナザレでは、カファルナウムで人々に教えていたように行動をしますが、ただ、それを語るのが自分たちの良く知っているイエスであるということにつまずくのです。せっかくイエスの言葉と業に出会いながら彼らは、イエスの背後にある神を見ることができなかったのです。

 奇跡は、救いをもたらす神の子としてのイエスの人格から切り離しえないということを表わしているのです。だからイエスの人格が拒否されるとき、奇跡は起こりえないのです。これまで奇跡が行なわれたのは、信仰が前提になっていました。

 また、イエスの身内のことをあまりにも良く知りすぎていたので、ご近所の人たちは、かえってつまづきました。神の子としてのイエスを認めることができなかったのです。

 イエスの村での立場をよく知っていたので、かえってその見方を超えることができず、イエスが、預言者として神との特別なつながりの中で活動していることを理解できなかったのではないでしょうか。

 だからイエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ《だと言われるのです。また、この人は大工ではないか、という言葉の中に、わたしたちが人を見るときも、やはり、社会的な評価を超えられないことがありそうです。あの人はどういう家の出身で、どんな職業で、どんな資格があって、など、多くの装飾を付けてしまいます。しかし、本当にわたしたちは見るべき事柄は、その人の中にある信仰の部分を見出すべきではないではないでしょうか。

 まさに「人々の上信仰に驚かれた《という記述は、「信仰と奇跡《の切り放せない結びつきを示しています。

 病気のために汚れているとされた人々、悪霊に取りつかれていると言われて見捨てられていた人々、職業によって罪びとのレッテルを貼られてしまっていた人々。イエスはこの人々も神の子であることを、言葉と行動をとおして伝えていきました。ここにも、イエスのメッセージと活動がナザレの人々に受け入れられなかった理由があったのでしょう。

 なぜなら、「信仰《こそ人間にとって自然な姿だとイエスは考えているからです。その信仰とは、自分の価値観に固執することなく、目の前の出来事に率直に身も心も開く自由さであるのです。

 そのような柔らかな心こそがイエスを通して働く神の言葉に目を向ける力となるのです。

 せっかくイエスの業に驚きつつも、社会にどっぷりつかり切った自分の意識の殻を打ち破り、神との出会いへと飛躍する力が秘められているはずなのに、しかし、故郷の人々はイエスに驚いたにもかかわらず、神の働きを問うことを止めて、自分たちの次元にイエスを引きずり下します。だから彼らは結局、人間的な知り方を越えて、自分の枠の外に出ることができませんでした。これが「故郷の人々がはまった罠《であります、彼らは躓いたのは、イエスが驚く、彼らの上自由さでした。上信仰とはこの上自由さのことなのです。古い自分に固執し、解き放たれないことです。

 また、イエスが提起した、新しい関係性は、地縁・血縁を超え、社会的な立場の違いを超え、男女の壁を超え、民族の壁を超えて共に生きる共同体なのです。

 ここに、信仰共同体の一員として、わたしたちも格差社会の壁を乗り越えて、イエスが歩まれた小さくされた人々と共に生きる共同体を目指してともに歩んでいきましょう。