説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年7月22日(聖霊降臨後第9主日)

神の力によって生きる

マルコによる福音書 6章30-44節

 イエスが12人の弟子を派遣した先週読まれた福音書の箇所の終わりのところには、「12人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6章12-13節)とありました。

 きょう読まれた箇所は内容的には13節から続いています。

 30節の「使徒」という言葉は、ギリシア語では「アポストロス」と言い、「アポステロー、遣わす、派遣する」という動詞から来ています。新共同訳では、「使徒」と訳していますが、現在では本文批評という研究では、マルコでの存在が否定されています。余談ですがこの使徒という使われ方がルカによるものであろうと言われています。先週12人(ドーテカ)と呼ばれる弟子の一群が存在しましたが、その弟子たちの意味は「遣わされた者」です。遣わされた者の使命は「神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出す」ことです。これはイエスがしてきたことと同じことだと言えます。

 31節の「人里離れた寂しい場所へ行って暫く休む」ということは、信仰上重要なテーマになっています。「休む」という言葉であるアナパウオーは肉体的な休息を表して「休む・ゆっくりさせる」を意味するだけではなく、喜びや慰めなどによって内面的な安らぎを与えることを表し、安心させる、元気づける。という意味もあります。

 弟子たちが休息を必要としたのは、食事をする暇もないほど大勢の群衆が押し寄せてきて、疲れたこともあるでしょうけど、むしろ、神から力を受け、「元気づけられる」ためです。弟子たちが休む「人里離れた場所」とは、イエスがそこで祈ったように、神との交わりの場所です。そして、イエスと同じように祈り、神の国の宣教が何を目指すのかに思いを向けるためだと思われます。

 現代社会に生きているわたしたちの多くの人は多分疲れています。イエスは弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われましたが、わたしたちもこの言葉を切実に必要としているかもしれません。教区でも日常生活を「人里離れた場所」に行って黙想会をするプログラムも企画されます。日常から離れて退屈な生活をするのです。贅沢な時間です。

 また、34節でイエスは群衆の「飼い主のいない羊のような有様」を見ます。羊は弱い動物なので、群れを離れると滅んでしまいます。飼い主の役割は、羊の群れを一つにまとめ、野獣から守り、草のあるところに導くことでした。

 旧約聖書では、指導者を失った民が「飼い主のいない羊」に譬えられます。エゼキエル書34章でエゼキエルは、人々を守らず、かえって人々から奪い取るだけのイスラエルの牧者たちを厳しく批判してこう言います。「(5節)彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。(6節)わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。(7節)それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。(8節)わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいない」

 羊は家畜としてのみ存在していますので、羊は飼う者がいなければ、野の獣の餌食になってしまいます。イエスは集まった群衆の飼い主のいない羊のような有様を見て、深く憐れまれました。この深く憐れむとは、スプランク二ゾマイと言います。これは目の前の人の苦しみを見たとき、はらわたがちぎれるくらいに痛むことです。相手の痛みがわがことのように感じてしまう深い共感を表す言葉なのです。イエスの愛の行いはこの共感からきているのです。

 きょうの箇所で、この深い共感からイエスがしたことは「教え始められた」ということでした。マルコはいつものように教えの内容を伝えていません。もちろんそれは「神の国」についてのメッセージです。「王」と「羊飼い」のイメージはつながっています。この箇所のイエスの教えは、「野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル34章5節)羊たちを一つの集め、力づける牧者としての言葉だと言えるでしょう。わたしたちもそのようなイエスの言葉を聞くことがあるでしょうか。舟から上がったイエスは、まことの導き手を求める群衆の熱意に素早く反応し、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、教え始めました。イエスの憐れみは導き手を持たずに彷徨う群衆へと注がれ、「教える」という形で示されました。神の国についてのイエスの教えは、わずかな食べ物で多くの人々を養う奇跡によって現わされました。民が生きることを願うイエスこそがまことの牧者、導き手であります。

 ただし、この場面の弟子たちは簡単には休めなかったようです。群集が押し寄せてきたからです。きょうの箇所の後の5つのパンと2匹の魚の話では、弟子たちは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じられ、大群衆にパンを配るのを手伝わされています。結局のところ、休むことはできなかったのでしょうか。イエスが「教え」「パンを分け与える」という行為は「み言葉の礼拝」と「聖餐式」からなる「礼拝」そのものと言えるでしょう。いろいろな休み方がありますが、本当の休息はイエスのもとにいて、イエスとともに時を過ごし、イエスの言葉を聞き、イエスの食卓にあずかること、そう感じることができたらどんなに素晴らしい礼拝になることでしょう。

 イエスは人里離れた場所でパンを振る舞います。人里離れた場所は、命を寄せつけない所、人が生きることのできない場所であります。しかし、イエスはこの厳しい場に身を置き、神に祈り、神の声を聞きき、わずかな食べ物をイエスの手に渡し、イエスの手から受け直すとき、それは尽きることのない豊かさに変わるのです。イエスの奇跡は、人は貧しい現実から離れるのではなく、神との交わりの中で、神の力によって生きる者であることを知らせてくださっています。

 わたしたちは、この恵みを豊かに受けて今日から始まる日々を感謝をもって歩んで行きたいと思います。