説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年7月29日(聖霊降臨後第10主日)

マルコによる福音書 6章45-52節

 先週読まれた福音者の箇所は5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話(マルコによる6章35-44節)でしたが、きょうの福音書は、イエスが海の上を歩く話から、イエスとは誰かを再び問われています。 この海の上を歩く話では、並行する福音書では、マタイによる福音書14章、マルコによる福音書6章、ヨハネによる福音書6章16節からがあります。これらを比べながら福音を見ていきたいと思います。マルコによる福音書45節のそれからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませました。(45-46節)

 ガリラヤ地方を宣教するイエスや弟子たちにとって舟は欠かせない移動手段ですが、それだけではなく、湖畔の群衆にイエスが教えるために、イエスが腰を下ろす場所でもありますし、それは説教台の役割も果たすのです。更に、弟子がイエスのしるしを、奇跡を体験する舞台でもあります。(マルコによる福音書4章36節)。また、舟はこの世を渡る教会を表す象徴としても用いられています。ここでは、舟というのは、イエスが誰であるかを知るための場所でもあるのです。そういう意味でイエスは弟子たちがその舟に乗ることを強制しています。

 時は、「夕方になると」と、いうに時間を表す表現が47節で、48節で「明け方」という時が用いられています。パンの奇跡では、「時間もだいぶたった」とき行われました。そこには夕方という言葉はありませんが、聖書では、夜の時間に入っていきます。夜の闇は神の現れ、顕現への伏線となります。夕方舟にのり、明け方の出来事が記されます。ローマの習慣に従って、夕方6 時から朝6時までの12時間を四等分して、夜警時間を表しました。「第4番目の夜警時間」は明け方です。午前3時から6時を指しています。明け方は神が救いの手を指し伸べる時刻でもあります。イザヤ書17章14節には、「夕べには、見よ,破滅が襲い、世の開ける前に消え失せる。これが我々を略奪する者の運命だ。」と記されています。 そのとき「舟は海の真ん中にでていました」ヨハネによる福音書では、25から30スタヂオンと記されていますので、5から6キロメートル陸から離れた所にいたのでしょう。

 「舟」によって象徴される教会は「海」の中を行きます。神に敵対する力が猛威をふるう場が「海」でありますから、舟は、なかなか進まないで困難に陥っています。この逆風の「海」に対して、イエスが祈るために独りで「山」に立ち去り、神との交わりの時をもっています。先主日に読まれた箇所にあった、祈るために静かなところにイエスは退かれ神に祈っています。

 旧約聖書では神の力は、カオス(混沌)の象徴である海を支配する力と考えられています。神は原初の海を分けて大地を創造し、紅海を分けて民を渡らせました。湖の上で逆風に漕ぎ悩む弟子たちの姿は、詩編やヨナ書に描かれた船乗りたちの苦難の姿を思い出させます(詩篇10:23-32、ヨナ書1:1-16) 。そうした苦難の中で、彼らは海を静める神の力の大きさを体験するわけですが、紅海をイスラエルの民が渡るという出来事が起こった時刻もほぼ、イエスが湖の上を歩いた「第四の夜警時間」であります。それは出エジプト記14章24節a「朝の見張りのころ」におこっています。

 陸から眺めていたイエスは、弟子たちが湖の真ん中で漕ぎ悩んでいるのを「見て」、弟子たちのもとへ向かったのです、彼らのそばを「通り過ぎよう」とします。それを弟子たちが発見し、恐怖を抱きます。騒ぎだしました。恐れるなわたしだ。ここで、マルコは「通り過ぎる」という言葉を「通過する」ではなく、「顕現する」といった意味を込めて使っているのだと思われます。

 モーセの召命物語の中で、神がモーセに顕れたとき、わたしは人々に何と言えば良いのでしょうか、と神に尋ねます。「わたしはある。わたしはあるというものだ」と言われました。

 マルコによる福音書50節は原語では、サルセイテ・エゴ・エイミー「勇気を出せ、わたしである」という力強い表現になっています。そしてイエスは彼らの舟に乗り込むと風は止みました。イエスが舟のなかで彼らと共にいることで風はおさまったのです。神とイエス、そして弟子たちは舟のなかで一つであります。しかし、彼らは非常に驚いていたので、弟子たちは風が静まった後も混乱しています。マルコが描く弟子は、イエスが誰であるかを最後まで理解できない人たちでした。

 弟子たちがひどく困惑したのは、「パンの出来事を理解せず、心が頑固にされていた」からです。五千人に食べ物を与えた出来事を見た弟子たちが、イエスこそ命の糧をもたらす方だと気づいていたならば、自分たちのそばを通り過ぎるイエスを見たとき、そこに神の顕現を感じ取ったはずです。マルコが描く弟子たちはまだイエスの本質に気づいてはいないのです。そういう弟子が描かれています。一方、マタイ福音書を見てみますと、「彼は通り過ぎることを望んでいた」という語句を削除したうえに、舟から湖上へと出て行ったペトロを描き、溺れさせ、「あなたこそ、神の子です」と弟子たちにイエスへの信仰を告白させています。マタイの興味は信仰の薄い弟子たちの姿を描くことにあるのです。湖上のイエスのもとに行きたいと思い、舟から出て行ったペトロは弟子たちの典型的な行動であります。彼らは「信仰の薄い者」たちであるから、恐怖に襲われ沈みかけてしまうわけですが、しかし、マルコとは違って、イエスを「本当に、あなたは神の子」と告白することができるのです。

 マタイは弟子の現実に焦点を合わせています。見る視点が違えば、このような違いが現れてくるのです。マルコもマタイも同じ出来事を描いていますが、マルコは神として顕現したイエスに焦点を合わせています。

 全体を振り返ってみますと、イエスは弟子たちを「船の中へ」強いて乗り込ませました。他方、イエスは群衆を解散させた後、祈るために「山の中へ」立ち去りました。山は祈る場所です。そして、神と出会う場所です。弟子は神と共にあるイエスから離された状態にあります。

 イエス独りで陸に留まっています。イエスは弟子の窮状を「見て」、彼らのもとへと歩き、通り過ぎようとしました。イエスが海の上を歩くのを「見た者たちは、狼狽するのです。イエスの真の姿を見て取ることができずに恐れる弟子たちに、イエスは「わたしだ、勇気を出しなさい」と語りかけました。 イエスは「弟子たちのもとへ、舟の中へ」上がる。イエスが弟子たちのそばにやって来ます。すると風は止み、弟子たちは心の中で正気を失うほどに驚きました。弟子たちはパンの奇跡に関して理解せず、心が頑固にされていました。

 今日の福音書からわたしたちは、神から離れて、荒れ狂う海の嵐を避けることも知らないことに気づかされました。それを救ってくださるのはイエスでした。イエス様がともにいてこそ安らかであります。また、イエスにお会いしているのに気づかないわたしたちの姿も見ました。わたしたちは意固地にならずイエスとともに歩んで行きましょう。