説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年8月5日(聖霊降臨後第11主日)

命のパン

ヨハネによる福音書6章24-35節

  先主日と先先日主日に読まれたマルコによる福音書の内容に引き続いて、今週からヨハネによる福音書に変わりました。今日から4週の間はヨハネ福音書を読むことになっています。

  イエスが 5,000 人にパンを与えた後、イエスより先に舟で沖へ出た弟子たちは、すでに暗くなった湖を歩いて来るイエスを見て恐れましたが、イエスが「わたしだ。恐れることはない」というイエスの力強い言葉があります。ヨハネ福音書の場合、湖の上を歩いた話は単に奇跡物語であるだけでなく、わたしがいる、というこのイエスの力強い宣言をとおして、人々をイエスに対する信仰、そして今日の福音の「わたしが命のパンである」というイエスへの信仰に招く意味があるようです。

  イエスと弟子たちが「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」(23節)を離れ、舟に乗って出かけたので、群衆がイエスを探して「湖の向こう岸」のカファルナウムにやって来る、というところからきょうの福音が始まります。

  イエスを捜し求めてやって来た群衆はイエスを見つけ、イエスと対話しますが、この対話を通して、両者の間の隔たりが明らかにされます。

  群衆は「ラビ」(25節)と呼びかけます。ラビは、ヘブライ語で「わたしの先生」という意味の尊敬を込めた呼びかけの言葉だそうです。マルコの記す、5つのパンの物語を読みましたが、並行記事のヨハネのこの 5,000 人の共食の話の結びに「人々はイエスのなさったしるし」を見て、ヨハネ福音書では奇跡のことを「しるし」と言いますが、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言いました。

  人々は確かにイエスのすばらしさを認めていますが、それはイエスが人々に期待した反応とは違っていたようです。群衆は確かに熱心にイエスを捜していますが、イエスから見れば、彼らの「捜す」には、欠けたところがあります。群衆がイエスを捜しますのは、パンを食べて満腹したからです、それが先主日にも出てきましたが、「しるしを見た」ためではありませんでした。パンの奇跡は彼らにとっては空腹の欲求を満たす出来事で終わります。せっかく示された奇跡は、ヨハネ的表現でいえば「しるし」にはなっていないのです。 人の食べる食物には、「なくなる」食物と「永遠の命の中へと留まる」食物とがあります。イエスは永遠の命と関わる食物のために働くようにと勧めます。この「働く」は「食物を獲得するために働く」の意味ですが、ここでの食物は「人の子が与える」食物ですから、「働く」という側面よりも、恵みとして「受ける」という側面が強く響く言葉となっています。

  ところで、28節の「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という人々の問いは、日本語では唐突な印象があるかもしれません。27節でイエスが「働きなさい」というときに、ギリシア語では「エルガゾマイ」という動詞が使ってありましたが、この言葉の名詞の形が「エルゴン(業、働き)」です。28節の「神の業を行う」は原文に即して訳せば「神の働き(エルゴン)を働く(エルガゾマイ)」ということになり、これは27節の「働きなさい」という言葉に対する直接の反応だということになります。群衆は「神の働きを働くようにと、何をなすべきでしょうか」と尋ねます。彼らが考える「働く」ことは、労苦して自らの働きによって獲得することであります。しかも彼らが口にする「神の働き」は、神が私たちに求めている「働き」の意味です。具体的には掟や神の指示を指しています。彼らは永遠の命を得るには、神が指示する業を行わなければならない、と考えています。 しかし、イエスは、神が遣わした者を信じることが「神の働き」だと答えます。神が私たちに求める働きは「信じる」こと、それだけです。それが唯一です。

  更に、群衆とイエスの会話は「いつ、ここに来たのですか」と尋ねる群衆の問いかけで始まります。群衆がこのように尋ねたのは、イエスが湖の上を歩く方だと(16-21節)ゆめゆめ思わなかったからであります。どうやらズレの始まりはここにあるようです。

  イエスは群衆の理解を越えたメシアであります。だから、群衆が自分の思いや判断から抜け出せずにいれば、溝ができるのは当然であります。信仰とは、この溝の存在に気づいて認め、自分の思いや判断を捨て、イエスの言葉が指し示す世界へと導かれることであります。それを欠くなら、溝はますます深くなります。

  それぞれ相手の言葉を受けながら、群衆は尋ね、イエスは答えていますが、同じ言葉が微妙にズレた意味で受け取られています。このズレがやがてイエスと群衆との決定的な決裂に結びついて行きます。その時には、群衆はイエスに敵対する「ユダヤ人」になってしまうのです。(52節)。

  群衆は「あなたを信じる」ことができるようにと、しるしを求めます。31節の「マンナ」は、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、荒れ野で食べ物がなくて苦しんでいた時に、神によって与えられた不思議な食べ物です。きょうの旧約の日課で読まれました、出エジプト記16章に記されています。出エジプト記16章4節では、「天からのパン」とも呼ばれています。「マンナ」は、神がいつくしみ深く民を養い、守り、導き、生かすということの象徴でした。「しるしを行う」ことを求め、「天からのパン」を人々に与えた預言者モーセを引き合いに出します。

  群衆が旧約から引用した「天からのパンを彼は与えた」という聖句の正しい読み方をイエスは教えます。ここでの「彼」はモーセではなくて「私の父」と読むべきであり、過去形「与えた」ではなくて現在形「与える」と考えるべきです。イエスの考える「天からのパン」はマンナではなく、彼を通して神が与える教えです。

  モーセではなく、神が与えるパンと聞いて、群衆はそれを求めますが、彼らは食べる「パン」、彼らの欲望を満たす「パン」を考えています。 イエス自身が「命のパン」であります。こうして、群衆とイエスの間の越えがたい溝が明らかにされることになります。 わたしたちは、パンであるイエス様ご自身の霊的な養いの中に身も心もささげ、飢えることのない、渇くことのない、いのちの泉の中を歩んで行きましょう。