説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年8月19日(聖霊降臨後第13主日)

肉と血の交わり

ヨハネによる福音書6章53-59節

 先主日にパンについてのイエスとユダヤ人との間の長い対話がありました。きょうの箇所はその頂点とも言える箇所です。ヨハネ福音書は最後の晩さんの席での聖体制定を伝えていませんが、この箇所で聖体の豊かな意味を語ろうとしているようにとらえることができます。

 51節52節は先週の箇所の結びの部分ででもありました。ここには「わたしが天から降ってきたパンである」と「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉である」という表現が使われています。「わたしがパンである」はこれまでずっと語られてきたことですが、そのまとめとして、イエスを信じることの中にこそ永遠の命があるということが再度語られています。

 「わたしが与えるパン」は、ヨハネ福音書の「聖体」について語る新しい展開の始まりと考えることができます。

 53節では、はっきり言っておく、という大切なことを語るときの定型句であります。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない」十字架の上で裂かれたイエスの体、流された血、それに与ることによってキリスト者は神の与える新しい命を生きるという理解ができます。最後の晩さんでの聖餐の制定を伝えるマルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書やパウロ書簡の第一コリントの手紙は「これはわたしの体である」というイエスの言葉をわたしたちは聖餐式で用いていますが、ここでは「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われています。「肉を食べる」という表現は、ユダヤ人一般には人を殺すことを指しますので、イエスはこの表現を用いてユダヤ人を驚かします。人々が「人の子の肉」を食べることによって、永遠の命にあずかることを意味しています。血を飲むことはユダヤ教では、厳禁されています。レビ記17章10-14節に記されています。

 「(10) イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。(11) 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。(12) それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。(13) イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。(14 )すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。」

 「血の中に命がある、だから決して食べてはならない」というのが律法の教えでした。しかし、イエスは「人の子の血」を飲めば、永遠の命をもつことになると主張します。「わたしの血を飲むもの」というイエスの言葉は人々に衝撃を与えました。この言葉は、十字架で流されたイエスの血によって、人々が罪から解き放なたれ、永遠の命が得られた、という信仰を抜きにしては理解できない言葉です。イエスにとっては「血は自分の命であるからこそ、この血を飲ませ、永遠の命を与える」ということになります。「血」は6章のこれまでの対話にはない言葉で、ここで突然のように語られ始めます。もちろん、これはイエスの血である聖体のぶどう酒のことを意識しているからです。56節の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」いう表現は、ヨハネ福音書の特徴的でもあります。聖体拝領によって、人はイエスと一体になる。イエスの肉は、それを拝領する人にとって、霊的な尽きない命の泉がわくことになります。

 ヨハネ福音書15章でぶどうの枝がぶどうの木につながっているというときもこれと同様の表現が使われていて、15章1-9節には繰り返しこの表現があります。

 「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」。これは深い、互いの結びつきを表します。

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20章21節)。父とイエスの関係が、イエスと弟子たちの関係に拡大され、弟子たちの生き方、人生観を新たらしく変えていくのです。

 このように見てくるとヨハネ福音書は、聖体のパンとぶどう酒をいただくことに超自然的な効果があるというよりも、聖餐に与るということは、イエスと結ばれ、イエスによって生きることを意味しているのです。

 結びの58節で「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」というときの「このパン」は、「わたしはパンである」というイエスご自身のことであり、「わたしが与えるパン」は「聖体」そのもでもあるのです。

 教会は聖体をいただくために信仰と罪のない状態が必要であると言ってきました。洗礼と陪餐の時、懺悔し、罪の赦しを祈ります。そして、わたしたちは聖体をいただき、信仰によってイエスに結ばれて、その愛に生きようとしているかどうかをいつも問われているのです。わたしたちは聖体をいただくことを単なる儀式として軽んじる傾向がないでしょうか、あるいは、実際に聖体のパンとぶどう酒をいただきながら、それが単なる形式になってしまっていて、心からイエスに結ばれて生きているでしょうか。もう一度「これはあなたのために与えられた主イエスの体」という分餐語に、アーメン、と魂の底から感謝しましょう。