説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年8月26日(聖霊降臨後第14主日)

イエスは命の言

ヨハネによる福音書6章60-69節

 今日読まれた福音書は、ところで、弟子たちの多くは、これを聞いて、「実にひどい話だ、誰がこんな話を聞いておられようか」というところから始まります。

 ひどい話とは、何の話だったのでしょうか。それは先主日に読まれた「わたしは天から降ってきたパンである」(33-40節)、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)というようなイエスの言葉を理解できなかったからだと言えるでしょう。 この背景には、ユダヤ教との対立、迫害がありました。その結果として、クリスチャンといわれる人の中には、このような迫害があるならもうユダヤ教に戻ろうとしたクリスチャンもいた、と考えられています。このような背景の中でヨハネ福音書は書かれたのです。ヨハネ福音書は長い年月をかけて、イエスを信じないユダヤ人たちとの論争の中で、イエスの言葉を想い起こし、内容的に豊かにしていったものと思われます。

 62節「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば、命を与えるのは、霊である。肉は何の役にもたない。」霊と肉について解き明かしされます。

 わたしがあなた方に話した言葉は霊であり、命である。とはどういう意味でしょうか。人間の二通りのあり方を表す言葉だと言えるでしょう。「肉」は神とのつながりのない人間のあり方、「霊」とは神とのつながりのある人です。根底にはいつも、創世記2章7節の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という生命観があります。人は神によって生かされたものであって、この人を生かす神とのつながりが「霊」であり、命の息なのです。イエスの生涯と言葉と業のすべては、この神とのつながりこそが、人を生かすものであることをはっきりと示されていました。このことを見失い、人間が自分の力に頼って生きようとすること、これこそが「肉」なのです。だからこの中に本当の命はないのです。

 「この上るということは、のちに十字架に挙げられ、また天に挙げられる。また死人のうちよりあげられる」という言葉が重なっている重要な言葉であります。

 イエスが命のパンであることを認めることができない者は、ましてや十字架、復活、昇天の一切のことを認めることができないのであります。

 63節では、霊・肉二元論が積極的に用いられるような言葉使いが見られますが、この場合の霊は神からの霊、すなわち聖霊と考えるべきです。

 また、食することが大事なのではなく、その内実であるイエス・キリストの贖罪、復活の信仰をもって、イエス・キリストの体に与ること、それは聖霊の働きによってのみ可能であります。この信仰を抜きにして、パンを食しても何の役にも立たないということが示めされています。言葉が命であるということはヨハネ福音書の1章の初めのところで展開されています。すべての被造物を創造したのはことばであり、また命を与えたのもことばです。

 その意味で神が命をもっておられ、イエスにまたその命が託されているのです。聖霊、神の力もまた、その命をもっておられるのです。

 64節、「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」イエスを信じるか信じないかによって人が二つに分類されます。65節の「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」という言葉は、信じる人と信じない人を神が前もって決めている、という意味にも取れますが、そうではないでしょう。

 これらの言葉は、イエスを信じることは人間の力によるのではなく、神の恵みによるということを強調しているのです。

 また、この言葉は、神の計画に対する信頼を表しています。わたしたちのうちに起ることのすべては神の計画の中にあり、人間的に見て不条理なことや「なんで」という理解に苦しむことも実は神の大きな救いの計画の中にあるということをわたしたちの短い生涯を振り返るとき、経験的に言えるのではないでしょうか。愛する人との悲しい永遠の別れを通して神がもう一度、「遠く離れていた」わたしを呼び戻してくださいます。人間が拒否しても裏切っても神の救いの計画は確実に実現に向かっているという信頼をこの言葉のなかに救いを見ることができます。そして、イエスはこの神の計画全体に決定的に参与している方なのです。神のご計画を信じる信仰は、まさに神の恵みであります。

  66節で「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」ここでいう「このため」は「これまでのイエスの説教を聞いて躓いたため」ということでしょう。このように多くの弟子が離れて行ったという記録は共観福音書にはありません。ヨハネ時代の迫害の中で起こったことだからです。

 68-69節「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。「あなたがたも離れて行きたいか」。わたしたちはいつもこの問いの前に、立たされているのはないでしょうか。この出来事は、わたしたちの現実にあてはめて振り返りますと、わたしたちが「イエスから離れるとき」、例えば、わたしが「イエスを知らない」と不信仰に陥るとき、このカラーを外して世に存在するとき、イエスを裏切っています。毎日が「主に帰る」を唱えなければならない状況です。この問いにペトロのように答えることができるとすれば、それは神の恵みによる以外にないことです。「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」とイエスがわたしたちを招いておられます。日々主イエスとの交わりの中に、それは悲しみの中にあっても、主の恵みの一つ一つを数えて歩んで行きましょう。