説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年9月2日(聖霊降臨後第15主日)

昔の人の言い伝え

マルコによる福音書7章1節-23節

  先主日までの、4週間の主日にわたってヨハネ福音書6章が読まれてきましたが、今日からマルコ福音書からの福音に戻ります。約一か月前のマルコ6章30-44節には、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えました。湖の上を歩いて、舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、弟子たちはイエスを幽霊だと驚きました。イエスは特別な人であることに気づかないままいました。パンの奇跡を理解することができずにいた弟子たちは、また失態をやらかしました。イエスが私だ、わたしがあなた方とともにいる、とおっしゃっていることを忘れていたのでした。そして、今日の福音になります。最初の一節で、「ファリサイ派の人々」と「数人の律法学者」がエルサレムからやってきます。この「ファリサイ派の人々」については2:16に記されています。彼らは「イエスが罪人や徴税人と食事をしていたのです。」この論争がエルサレムの外であるゲネサレトの地(6:53)でなされたことを示されています。同時に、ガリラヤの民のあいだには、イエスの大衆的な人気とそのイエスに敵対するエルサレムの指導者たちの態度を対照的に描き出しています。「エルサレムからきたファリサイ派と律法学者たち」に何か意味があるように思われます。マルコ福音書では、イエスの活動はガリラヤ地方を中心に行なわれていました。最後の一度だけイエスはエルサレムに行き、そこで十字架にかかって死ぬことになります。

  マルコは、神の国の到来を告げるイエスの活動の拠点であった「ガリラヤ」とイエスを十字架につけた町の「エルサレム」を対比させ、エルサレムから来たその人々がイエスにとって敵対的な人々であるという意味が込められているようです。「ファリサイ」という言葉の意味は、一説によりますと「分離する」という言葉から来ていて、「律法を知らない汚れた民衆から分離した者」あるいは「罪や汚れから分離した者」と考えられています。ファリサイ派は「清さと汚れ」に敏感でした。だから「手を洗わない」ことに敏感でした。今の私たちの衛生観念の問題ではありません。例えば「トイレ」から出たときに手を洗わない人を見て、「汚い」というのではないのです。手を洗うのは、宗教的な清めのためです。4節に「市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とあります。「市場」は異邦人と接触する場であり、不特定多数の方が行きかうので特に汚れをうつされやすい場所と考えられていました。「汚れた」と訳されている言葉は、ギリシア語で「コイノス」です。ここでの「汚れた」は「一般の」「公共の」を意味し、世俗的なものを意味することになります。また、旧約続編のマカバイ記などでは、特別な意味を持ち、律法に照らして祭儀的に汚れているものを指します。3-4 説明の挿入はこの福音書にしばしばみられる「ユダヤ人」という表現には、ヨハネ福音書ほどまだ、先鋭化されていませんが、マルコの属している教会とユダヤ教の会堂に属するユダヤ人との対立が反映されているようです。食前に祭儀的意味で手を清めることは旧約聖書の律法では命じられていませんが「昔の人の言い伝え」に定められています。この昔の人の言い伝えそのものがイエスによって「人間の言い伝え」と呼ばれ、「神の掟」と対置され、弾劾されています。今日準備の祈りで、十戒を唱えましたが、これは私たちの信仰の基準であります。マルコの8節で「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」「言い伝え」は神の掟を侵害するものであるどころか、むしろ神の掟を無効にするものです。こうして言い伝えの権威が否定されています。14-23節まで聞き手の変化と共に新しい主題として、ー旧約聖書の食物規定ーが論じ始められます。それはファリサイ派への答えではなくて、民衆への宣言であります。15節はモーセの律法における食物規定を破棄する大胆な言葉です。人を汚すものは祭儀的意味における汚れた食物ではなく、「人の中から出てくるものは人を汚すのである」といいます。すなわち悪い言葉、うそや中傷などがそれです。それは神との交わりに不適格な者として、あらわにされました。このようにして「汚れ」の概念は道徳的な考えかたに変えられていきます。

  21-22節では、心の中から出て人を汚すものとして、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」が挙げられています。特に「傲慢」ということに着目してみますと、ファリサイ派や律法学者の問題がこの言葉に当てはまるのではないでしょうか。「自分たちは宗教的な清めのためにいつも努力している、律法を守っている。それなのにイエスの弟子たちは手を洗わないで平然としている」そういう人を見下した意識で、彼らは自分たちの傲慢な優越性を保っていたのです。そういう非難の仕方なのです。

  わたしたちの中にも同じような問題に陥っていく時があります。自分は真面目に熱心に奉仕をしていると思えば思うほど、その自分の基準を他者にあてはめて、聖書の言葉で表現しますと他人を「汚れた人間」として裁いてしまう危険性があります。神との関係においては、食物のような外的・物的なものではなく、心が決定的に重要であることが強調されています。食物規定に対するイエスの批判が決して旧約律法全体の廃棄でなく、ファリサイ派が独占する口伝律法を批判されたことが明らかにされています。イエスの弟子たちはファリサイ派的な敬虔さから程遠かったのでしょう。当時の宗教者の基準からは評価されないような弟子たちを、イエスはいつも弁護してくれました。ここに最も根本的なイエスの生き方が表れていると言えます。イエスはファリサイ「分離」ではなく「交わり」繋がりを重んじました。ファリサイ的な分離からコイノニア、交わりへの転換がなされたのです。わたしたちも小さくされた人々を教会共同体から分離するのではなく、交わりの中に迎え入れていくことが教会の使命として与えられています。