説教要旨 |
2018年9月23日(聖霊降臨後第18主日) |
弟子たちのあるべき姿
マルコによる福音書9章30節-37節先週の福音は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所(マルコ8章27-35節)でしたが、きょうの箇所は、2回目の受難予告と言われる場面です。イエスと弟子たちは、そこを出発してガリラヤの町や村々を通り過ぎ、カファルナウムに向かっています。
そこでイエスの言葉を理解できない弟子たちの姿が描かれています。これは一度目は、群衆と弟子たちに向けられたのでしたが、「誰かが知るようにと望まなかった」とある事から考えますと、誰にも気づかれないで、ひそかに彼らだけで移動したことになります。だから、ただ弟子だけを対象にした予告であります。
先週の第一回目の受難予告を振り返りますと、8章31では、「それからイエスは、人の子が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目の後に復活することになっている。」という神のご計画の中で示されていることでした。
今日の9章31節のみ言葉は、「引き渡される」という受動形を使うことによってその必然性が表されています。イエスが引きわされるのは、神の意思にかなうことであります。しかし、弟子たちはこの言葉が分かりませんでしたが、怖くて尋ねることができませんでした。
弟子たちの無理解 まずイエスが「何を論じ合っていたのか」と問い、「だが彼らは黙っています」。なぜ、黙っていたのでしょうか。イエスが受難を予告していた「道の途中」でと訳されているものは「道において」という訳になります。これは、十字架の道においてということになります。彼らはイエスを理解できなかったばかりか、「道において」が33節にも34節にも使われていますが、これは「カファルナウムへの途上で」のことですが、「道において」ということは、それだけでなく、十字架への「道」を意識されているのです。いずれにせよ、イエスが受難を予告した「道において」彼らが互いに論じ合っていたのは、誰が最も偉いか、ということでした。イエスの考えていること、生き方と合わないことが分かっているから沈黙を決めたのでしょう。このように弟子の無理解が強調されます。しかし、イエスはそのような弟子たちを捨てることなく、十字架への道を教え続けます。
弟子たちのあるべき姿
この段落では弟子が取るべき態度が「仕える者」と「受け入れる」によって表されます。35節の未来形で「彼はあるだろう」は命令を表しています。皆の最後となり、仕える者となりなさいの意味である。仕える者、ディアコノスは「食卓で給仕する者」を意味しますが、他人に対するあらゆる奉仕を指すために使われるようになり、特にキリスト者の基本的な姿勢を表すようになった言葉です。しかも、十字架は「仕えるために来た」イエスの奉仕の頂点であり、キリスト者の「仕える」は、この十字架からこの意味を得ているのです。イエスは十字架の死に至るまで従順であられました。このイエスの従順が仕えることであります。そして、弟子は「すべての人の後になり、すべての仕えるものになりなさい」とイエスは語りますが、ここでの後は最も地位の低い者の意味であります。「仕える」キリスト者は社会の中で「最も地位の低い者」となりますが、しかし、それは最初のものになる道であります。なぜならば、イエスはその道を歩んだからであります。
教会の屋根の上に掲げられている十字架はまさに社会に仕えるシンボルであります。主イエスの十字架はこの地域に仕えるということを意味します。どんな人でもイエスが迎えれたように教会もすべての人を受け入れるのです。これはイエスが弟子たちの取るべき態度として「受け入れる」ことを教えられました。
イエスは子どもを彼らの間に立たせて抱き上げ、このような子どもを「受け入れる」者がイエスに受け入れられ、イエスが受け入れる者は神に入れられると述べます。イエスが用いていたアラム語では、「タルヤー」は「僕」、つまり「仕える者」を表します。イエスが手を取った子どもは「仕える者」の象徴であると同時に、力のない弱い者の象徴であります。
イエスは「力のない弱い者」として十字架に上ることによって、すべての人に、「仕える者」となりました。そのイエスが「子ども」を抱いて、「受け入れる」ようにと弟子を招くのです。そしてわたしたちを招いてくださっているのです。
イエスの地上で活動した時代は、律法という基準で人間の価値がはかられていました。一人前の人間として評価されるためには律法を学び、律法を忠実に守ることが必要でした。
子どもは、律法についての知識もまだ身についていません。律法を守る力もないものでありますから、子どもであることそのものには何の価値もないとされていました。迫害されている弟子たちや助けを必要としている小さな人々と「子ども」のイメージは重なっています。このような人々を大事に思い、大切にすることこそが、イエスと神を大切にし、神中心の生き方をすることだというのです。
現代の子どもたちはイエスの時代の子どもたちとは違って、律法の基準で計られているわけではありません。しかし、「どれだけ役に立つか」という経済的基準で計られている面は否定できませんが。「少子化」の問題が指摘され、子どもの数がもっと多い方がよいと言われています。大人の都合で子どもを見る見方は、極端な場合には、子どもたちを犯罪や虐待の被害者にしてしまうこともあります。子どもに対するイエスの見方は、当時の社会の一般的な見方とも、現代の経済活動中心の社会の見方とも違っていました。イエスは人間を律法の基準や経済的価値で見ていません。すべての人は神の子である。父である神はすべての人をわが子として愛するのです。わたしたちはどのようにすれば、自分自身を小さいものとして自分自身の中に受け入れることができるでしょうか。自分が小さいほどイエスが多く働いてくださるのです。イエスに明け渡しましょう。
きょうのヤコブ書の6節の「神は、高慢なものを敵とし、謙遜なものには恵みを与える」という言葉は、詩編138編6節と箴言第3章34節に記されているものです。神はわたしたちのうちに住まわれる霊を、ねたむほど深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださるというみ言葉を信じて歩んで行きましょう。