| 説教要旨 |
| 2018年10月7日(聖霊降臨後第20主日) |
離縁について
マルコによる福音書10章2-9節マルコ福音書では、2回目の受難予告の後に、先週の9章38-50節に子ども通して仕える者になるというイエスの固有の見方が示されています。続くきょうの福音では、当時、社会的な立場・評価の低かった女性に対する見方をモーセの律法の解釈から独自の見解が示されました。
ここには、パリサイ派との論争において、当時の社会的な状況の中でイエスが命懸けで伝えようとした神のみ心がよく表れていると言えます。
一つは離婚に関する見解ですが、イエスの時代の「離縁」の問題と現代の「離婚」の問題は時代背景が違いますので同じように語ることができません。当時は圧倒的な男性優位の社会でしたから妻の側からの離婚の申し出や協議離婚などはありえないことでした。
「離縁」といえば一方的に夫が妻を追い出すことだったのです。それでは、ファリサイ派の人たちの理屈から見ていきましょう。「夫は妻を離縁することは、立法に敵っているでしょうか」、とイエスを試そうとしたことでした。だから「モーセの律法はなんと命じたか」逆に質問を浴びせかけます。彼ら律法学者たちは、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と言いました。
モーセ5書の申命記24章1節をみますと、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあるからそういう発言になりました。
ファリサイ派の人々はイエスの質問に対して、「モーセは命じた」とは言わずに、「許した」と答えています。律法を大切にする彼らは、それを正確に覚えています。しかし、行動が律法に適っているかどうかに意識がいってしまい、律法の精神そのものを理解できていません。
申命記24章1節の規定が成立したと思われる紀元前7世紀以前は、いかなる手続きもせずに、妻を自由に離縁できたようです。しかし、この申命記法によって制限が加えられ、妻に「恥ずべきことがあって」気に入らなくなった場合に限り、離縁状を書いて、離縁することが許されました。したがって、この掟は男性の勝手な行動に歯止めをかけることを目的としていました。 だが、それ以前は離縁の理由となる「恥ずべきこと」が具体的にどのような行動を指しているかをめぐって、ラビの間に意見の違いがありました。主要な二つの考え方では、シャンマイは厳格な解釈をとって、妻の不貞行為を指すとしました。ヒレルはさらに広く理解して、妻の側の過失を指すものとしていました。いずれにしても、ラビたちは申命記24章に基づいて、離婚は正当なものとしていました。
荒れ野の時代から時代が下って、都市生活をするようになりましたが、掟を守ろうとするファリサイ派の努力は立派であります。だが、しっかり守ろうとするあまり、書かれた言葉の字面にこだわり、その掟の心を忘れ去ることに誤りがあります。掟の心が忘れ去られると、それを人間の都合に合わせて読み、掟の精神とは遠く離れていきました。「合法的である」かどうか、に囚われたファリサイ派の失敗はそこにあります。
イエスは、モーセが離婚を認める指示を書いたのは「あなたがたの心の頑なさに向けて」のことだといいます。「心の頑なさとは、神の指示への不従順が習慣化し、感覚の鈍った心を指しています。「心の頑な」な男性に離縁状を求めたのは、それを書く間に、離婚を考えたのは身勝手な理由からではないかと再考させるためです。申命記24章は離婚を確かに認めています。しかし、それは「心の頑なさに向けて」の譲歩なのであり、反省を求める呼びかけるものでもあります。
そこで、6節でイエスは「創造の初め」ということに議論の方向を向けます。モーセのように人間の心の頑なさに目を向ければ、人間の心に引き寄せられます。しかし、「創造の初めに」目を向けるならば、神の心に思いを寄せることになります。なぜなら 人間の創造のうちに神の心が鮮明に表されているからです。
創世記2章では、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言い、あらゆる動物を造りました。男は動物の間に自分に合う「助ける者」を見いだせませんでしたが、神が女を造って彼のもとに連れて来ると、「ついにこれこそ」と述べて、探していた「助ける者」を見つけた喜びを口にしています。創世記は「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創2:24)と続けますが、ここでの「こういうわけで」は助ける者を見出した喜びを指しています。しかし、イエスは創世記2章24節を創世記1章27節の「神は人を男と女に造った」に結びつけますので、「こういうわけで」は神による男と女の創造を指すことになります。イエスから見れば、男の喜びは「助ける者」である女に出会った喜びだけではなく、神がそのように造ったことへの喜びであります。男は女に出会うことによって、そこで神にも出会ったのです。この喜びが満たされるなら、身勝手な気持ちから、離縁状を書くことはないはずであります。イエスが「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と述べるとき、この創造の喜びを思い起こすようにと神が招いたのであって、新たな「規則」を課したのではありません。
人が掟を振りかざすのは、自分を弁護するためか、他人を断罪するためであります。しかし、イエスが掟に見るものは、人を生かそうとする神の意志であります。離婚を認める申命記24章の背後にも、人間をあるべき姿へと導こうとする神の思いがあります。イエスにとって掟は文字ではなく、神の呼びかけであります。この段落に続く弟子との対話 (10-12節)では、イエスは「妻を離縁する夫」と「夫を離縁する妻」について述べています。イエスの時代のユダヤ人社会では、姦通は妻が夫に対して犯す罪とされており、妻の離婚権は認められていませんでした。この段落で表明された考え方、つまり男の身勝手さを許さず、女性差別に反対する考え方そのものは、イエスのものと言ってよいでしょう。
結婚し、一体となった夫婦が離縁して再婚すれば、夫にせよ、妻にせよ、等しく姦通を犯したことになります。結婚には、創造に示された神の意志が働いております。夫婦は断ち切れない命のきずなで結ばれています。このきずなを無視した再婚は、姦通でしかありません。イエスのように「創造の初め」へと目を向けるなら、このきずなが束縛ではなく、神の恵みであることを思い起して、その恵みの中に生きることがイエスのこのメッセージであり、わたしたちに示された女と男の社会での係りが等しくつくられているのです。