説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2018年12月2日(降臨節第1主日) 

人の子がくる

ルカによる福音書21章25-31節

   ルカによる福音書21章25―31の終末についての説教からです。場面は少し違いますが、内容としては、先々週の主日に読まれたマルコによる福音書の13章の箇所とよく似ています。一年の終わりの「終末」というテーマは降臨節の初めに引き継がれていきます。カトリック教会やルーテル教会では、「待降節」と呼んでいます。「降臨節」は英語では「Advent」で、「到来」を意味しますが、この到来には2重の意味があります。

   「主を待ち望む」降臨節には二重の特質があります。それは、まず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕を祝うための準備期間であり、また同時に、それは降誕の追憶を通して、やがて、来るであろう、今既に来ているであろう、終末時におけるキリストの第二の来臨を待ち望むことへ、心を向ける期間でもあります。これが降臨節の主を待ち望む時であることです。わたしたちは、フロンタルも紫色に替え、慎み深く主イエスを待ち望みます。

   きょうの福音書を見ていきますと25節の「それから太陽と月と星に徴が現れる」というような天体の異変が起こります。イザヤ書13章10節に、「天のもろもろの星とその星座は光を放たず、太陽は昇っても闇に閉ざされ、月も光を輝かされない」と預言者イザヤが記しています。エゼキエル書32章7節、ヨエル書2章10節などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きが訪れることを表す表現です。

   このことは、並行箇所のマルコ13章24-25節と比較すれば、いっそう明らかになります。24それらの日には、このような苦難の後、 太陽は暗くなり、月は光を放たず、25星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

   マルコは天体の変化を詳しく記述していますが、それが引き起こす「不安」に言及していません。ルカは天の動揺よりも、それが「国民」に引き起こす動揺に興味を持っているかのように描かれています。

   「不安」と訳したギリシャ語のシュノケーは占星術の用語としても使われて、「天体の悪いしるしによって引き起こされる不安とか狼狽」を意味します。だから ここでの「国民」とは天のしるしによって不安に陥る人たちが「国民」のことです。

   そのような時、人の子は「雲の中で」来るというのです。この「雲」は人の子が乗る乗り物と取ることも可能ですが、神の現存を表す「雲」と考えることもできます。

   人の子は神として「力と多くの栄光」を携えて、やって来るのです。その到来を「人々は見るだろう」。人の子の到来は誰の目にも明らかな確かな出来事なのです。

   この23節の主語はもはや「諸国の民」ではなく、「あなたがた」、キリストを信じる者たちであります。彼らが「身を起こして、頭を上げる」(詩24:7)ことができるのは、人の子の到来は、まさに彼の「解放」の時だからです。

   ここで「解放」と訳した語のアポリュトローシスは「捕虜や奴隷などを身の代金を支払って買い戻すこと」を表わします。贖いの意味もあります。レビ記25章47節以下によりますと、買い戻す義務を負うのは親戚でしたが、神は私たちの親戚のように振る舞い、罪の奴隷となっていた私たちを買い戻すために、イエスを十字架に送ったのです。十字架によって開始されたこの「解放」は、人の子の到来によって完成するのです。その完成は今「近づいている」のです。この確かな希望を持っているがゆえに、キリスト者は天が揺らいでも、その向こうからやってくるキリストの到来を確信し、頭をあげることができるのです。 主イエスは「頭を上げなさい、解放の日が近い」と励ましてくださるのです。

   贖いとか解放という言葉は分かりにくいように思いますが。「贖いあるいは解放」は終末論的な意味でも使われます。このときには、「贖い」はキリストの死と復活によって既に開始され、来るべき終末の時にキリストの再臨と共に完成される救いを表わします。パウロにおいては、終末に現される神の栄光にあずかり、「霊の初穂を頂いているわたしたちも、神の子とされることが「贖い」であり、心の中でうめきながら待ち望んでいる」とロマ書8章23節で述べています。

   「解放」と訳された語、アポリュトローシスは神がキリストを通して罪や死から人を「解放すること・贖うこと」です。または、人が「解放されること・贖われること」を表します。この意味でアポリュトローシスを使うのはパウロです。彼は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている人間すべてが「キリスト・イエスにおける贖い」によって義とされると述べています(ロマ3:24)。

   この「贖い」は、続く25節に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、「神の義をお示しになるためで」とあることから明らかなように キリストの十字架を表しています。   

   神の恵みが人間に示されるのは、「御子の血による贖い」を通してであり(エフェ1:7)、御子キリストにおいて得られる「贖い」とは「罪の赦し」である(コロ1:14)。新しい契約の仲介者であるキリストは、最初の契約の中で犯された罪の「贖い」として死んでくださいました(ヘブ9:15)。それゆえ、1コリント1章30節ではキリスト自身が「義と聖と贖い」と呼ばれることになる。

   世の終わりは確かに一面では、人類滅亡のメッセージのようです。現代のわたしたちが思い描く世界の終わりも、世界最終戦争と言われる核戦争であったり、地球環境の悪化によって、人類の存亡にもかかわってきています。やはり破滅そのものとしてとらえる時、そこには何の救いも感じられないかも知れません。

   しかし、聖書の終末に関するメッセージは、先主日にもありました神のご計画の中にあり、神の救いの救いによる、神の完成のメッセージでもあります。

   「終末=世界の終わり」と言われても遠い世界の遠いところの出来事のように感じるでしょう。しかし、聖書の「終わり」についてのメッセージは、人々の恐怖心をあおり立てるためにあるのではありません。むしろ「神の愛に信頼し、その愛を生きるように」と人々を励ますためのメッセージなのです。きょうの箇所もそのように受け取ったらよいでしょう。わたしたち一人ひとりが神様から「命」を受け、その一生について考えてみると分かりやすいかも知れません。

   人はこの世に生を受け、イエスに導かれたその人の生の終わりに天に引き上げられ、神のみ許に安らかに憩います。これが解放された魂であり、十字架の愛に贖われたキリスト信者の生涯であります。いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになってもそれは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時」ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。

   見て、知る(29-31節) 日常の中で目にするいちじくの木を「たとえ」として、イエスは教えます。木々が芽を出すとき、それを見ているあなたがたは自分の力で、「夏が近くにある」と知ります。それと同じように、出来事、起こることを見るとき、「神の支配は近くにある」と知ることを求められています。出来事を「見る」とは、それが何を意味しているかを「知る」ことであります。

   「これらのこと」が、偽メシアの出現や戦乱、ローマによるエルサレム陥落などの歴史上の出来事も神の支配の接近を知るしるしとなります。

   ここでは、ただ救いの時を見逃すなと警告しているのではないのです。むしろ、人々が恐れて気を失うほどの時にも、キリスト者には希望が与えられていると述べています。人の子の到来が解放の時だと知っている者は、この今の生活に注意を集中することができるのです。キリスト者とは、苦難の向こうにイエスの姿を見て、頭をあげることが許されている人のことであり、解放の時を信じる者は神への信頼を生きる者たちです。だからこそ、たとえ苦難の出来事であっても、それを「見る」とき、それが起こる意味を「知る」ことができるのです。キリスト者とは、出来事の向こうに働く神の力を見抜く目を持つことのできるものです。

   いつか「その日が不意に訪れるまで、今をどう生きるか」がわたしたちに問われるのです。